古代寺院の宗派性について
我が国初期(飛鳥・白鳳期)の寺院は、三論宗か法相宗に属していたと考えられる。
例えば飛鳥期の四天王寺、飛鳥寺、法隆寺(若草伽藍)などは当初は三論宗であったと考えられる[1]。
その後、白鳳期になると法相宗が増えてくる。山田寺、薬師寺、興福寺などは創建時から現在も変わらず法相宗である。
三論宗は西暦538(または552)年の仏教伝来時に断片的に伝わった。法相宗は西暦650年前後に幾度かに分けて日本に伝わった。
であるから飛鳥期の厩戸皇子(聖徳太子)の仏教は三論宗的色彩が濃いと思われる。そのひとつの証左として、彼が編んだとされる三経義疏のうち『法華義疏』の内容は、彼がそのテキストとした法華経(『妙法蓮華経』)における現在では見られない6世紀前半以前の古い様相を示している[2]。
閑話休題。
その後、奈良時代になると主要な大寺は六宗(三論・成実・法相・倶舎・華厳・律の南都六宗)兼学の学問寺となる。四天王寺や法隆寺、国分寺・国分尼寺などは奈良期には名目上は各々の宗派に属していたが基本的に六宗兼学の学問寺であった。
ちなみに飛鳥期の三論宗及び成実宗ならびに倶舎宗は現存していない。であるから現存する日本最古の仏教宗派は白鳳期に伝わった法相宗(大本山:興福寺/薬師寺)である。
平安期になるとこれに平安二宗(天台・真言)が加えられ、八宗兼学となる。
中世に至り、鎌倉仏教が勃興してくるとそれまでの旧宗派や八宗兼学の寺は転宗したり鎌倉新宗派を含めて各宗派に分かれて行く。その後、近世の徳川政権による宗教統制では寺檀制が強制されて各寺の宗派は固定化する。
近代に入り、上述の近世の寺檀制度で固定化されていた宗派はやや流動化し、とくに戦後は伝統仏教内においても新宗派が独立・誕生する。
例えば、
四天王寺=天台宗→和宗
法隆寺=法相宗→聖徳宗
清水寺=法相宗→北法相宗
などである。
なお、日本古代各期における特徴的な(主として流行した)仏像信仰は、
飛鳥期=釈迦・観音信仰
白鳳期=釈迦・観音・薬師信仰
奈良時代=釈迦・観音・薬師信仰
平安初期=薬師・密教信仰
平安中・後期=密教・阿弥陀信仰
といえる。
※トップ画像は飛鳥寺(フリー素材 photo AC さんより)。
【註】
[1]四天王寺は後に天台宗となり戦後は和宗。法隆寺は後に法相宗となり戦後は聖徳宗となった。
[2]厩戸皇子がテキストとして用いたとされる法華経(『妙法蓮華経』)は二十七品である。現在の法華経は二十八品で構成されているが、このうち「提婆達多品 第十二」は南岳慧思(515〜577年)によって後から足されたものであり、慧思以前の法華経は二十七品であったと考えられている。
【参考にした文献】
花山信勝『法華義疏の研究 : 聖徳太子御製』東洋文庫 1933
花山信勝『法華義疏』岩波文庫 1975
薗田香融「古代仏教における宗派性の起源」『平安佛教の研究』法蔵館 1981
『論集・日本仏教史』「飛鳥時代」雄山閣 1989
『論集・日本仏教史』「奈良時代」雄山閣 1986
『論集・日本仏教史』「平安時代」雄山閣 1986
速水侑『奈良・平安仏教の展開』吉川弘文館 2006
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