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【救い】自殺を否定しない「笑える自殺本」。「自殺したい」ってもっと気軽に言える社会がいい:『自殺』(末井昭)
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「自殺」について様々な方面から末井昭が語る
自殺の話は、気軽には話せない
私は大学生の時に、遺書を書いたことがあります。自殺しようと考えていました。
今でも私は、生きていく気力があまり見いだせずにいます。昔からずっと、そんなガス欠状態でした。当時も今も、何か特別死にたい理由があったわけではありません。それでも、生きていくにはあまりにもしんどくて、実際に死を決意したことが一度だけあります。
遺書はキャンパスノートに手書きしました。今も、部屋のどこかに埋もれていると思います。
その時は結局死にませんでしたし、その後は、「自殺は思った以上に勇気がいることで、簡単にはできないから、『どうせ自殺すればいいや』という最後の手段的扱いをするのは止めよう」と考えるようになりました。
「遺書を書いたことがある」とか「自殺しようと思ったことがある」というエピソードは、そういう流れになれば自分から話すこともあります。ただやはり、「自殺」というのはなかなか日常的な話題になりにくいものです。誰に話すかにもよりますが、そういう話をすると、ちょっと場の空気が変わるのを感じることもあります。「そんな話するなよ」的な雰囲気になってしまうんですね。
以前知り合いの女性と「遺書を書いたことがある」という話で盛り上がったことがあります。そしてその女性も、似たような話をしていました。友人との会話の中で、軽い感じで「死にたい」みたいなことを言ったら、「死ぬなんて言わないで!」「悩んでることがあるなら相談に乗るから!」というような反応になってしまったと言います。そういう大げさな反応をされてしまうと、むしろ余計に話しにくくなってしまうものです。
私は、「死にたい」とか「自殺を考えたことがある」みたいな話を、もう少しフラットに、当たり前に話せる世の中の方がいいのではないかと考えています。良かれ悪しかれ、過剰な反応をされると、話題として出しにくくなってしまうからです。心配してもらうことより、面白がって聞いてもらおう方が、「良かった。こういう話をしても大丈夫なんだ」と感じられて、自分の話がもっとしやすくなるのにな、と。
そんな風に感じる方も、結構いるのではないかと思います。
笑える自殺本
ざっくりと本書の説明をしてみましょう。
著者はなかなか凄い経験の持ち主で、なんと母親が「ダイナマイト心中」で亡くなっているのです。「ダイナマイト心中」というパワーワードはなかなかのインパクトですよね。
著者自身は自殺を考えたことがないのですが、周りに自殺未遂をしたり自殺したいと考える人が結構いるそうです。そういう人たちから話を聞いたり、そういう人たちに伝えたいことをまとめたりするようなウェブ連載をスタートさせることになり、それを書籍化したのが本書です。
この本の最大の特徴は、「自殺の話なのに笑える」ということです。
自殺というとどうしても暗くなりがちです。だから余計にみんな目をそむけてしまいます。自殺のことから逸脱したところも多分にあると思いますが、笑える自殺の本にしよう、そのほうがみんな自殺に関心を持ってくれる、と思いながら書きました。この本を読んで、ほんの数人でもいいから自殺していく人のことを考えてくだされば、少しは書いた意味があるのではないかと思っています
この点が、何よりも素晴らしいと思います。
この作品には、著者の周りにいる「とんでもない人たち」の話が様々に語られます。死にたいと思っている人もそうでない人もいるのですが、彼らのぶっ飛んだエピソードを読んでいると、「こんな無茶苦茶な人だって生きてるんだから、自分だってなんとかなるかも」と感じられるんじゃないかと思います。そういう「面白いエピソードを持ってる人がたくさん出てくるよ」という意味で、本書は「笑える自殺本」と言えるでしょう。
自殺の話をもっと気軽に話せる社会を
著者は本書で、「当たり前のように死について喋れる方がいいのでは?」というスタンスを取ります。まさに私が、この記事の冒頭で書いた通りです。
世の中、自殺について冷めているような気がします。交通事故死者の三倍も多いのに「最悪ベース」を報じる新聞の記事もあまり大きくなかった。おおかたの人は自分とは関係ない話だと思ってるんでしょう。もしくは、自殺の話題なんか、縁起悪いし、嫌だと目を背けてる。結局ね、自殺する人のこと、競争社会の「負け組」として片づけてるんですよ。「負け組だから死んでもしょうがない」「自分は勝ち組だから関係ない」と。「ああはなりたくないね」と。
死者を心から悼んで、見て見ぬふりをしないで欲しいと思います。
確かに私も、「負け組だから死んでもしょうがないって考えてるんだろうな」という雰囲気を感じてしまうことがあります。そこまで強くはなくても、「自分とは違う世界の話だ」と思っている人は多くいることでしょう。
気持ちが凄く強い人であれば、自分は自殺とは無縁だと考えていてもいいでしょうが、私は、世の中の多くの人は、「『死にたい』と思わずに済む人生を運良く生きられている」と考えています。性格や生まれた環境などの要因も大きく関係するでしょうが、それだけではなく、今の自分を取り巻く様々な環境が「ラッキー」だったから「死の誘惑」に囚われずに済んでいるに過ぎないのではないか、と。
コロナウイルスの蔓延で、生活が一変した方も多いでしょう。それまで「死にたい」などとまったく考えたことのなかった人が、環境の激変によって初めて「死の誘惑」を意識するというのは想像に難くありません。
だから、他人事だと思わないでもらえるといいな、と考えています。
自殺を「悪いこと」とは考えていない
以後、こうして自殺についていろいろ話すようになったのですが、僕は必ずしも「自殺はダメ」とは思っていません。もちろん死ぬよりは、生きていた方が良いに決まってます。でもしょうがない場合もあると思います。人間社会は競争だから、人を蹴落とさなければならない。時には人をだますこともあるでしょう。でも、そんなことをしてまで生きたくないって思うまじめな人、優しい人に「ダメ」と、分かったようなことは言えないですよ。まじめで優しい人が生きづらい世の中なんですから。
僕は、自殺が悪いこととも、もちろん、いいこととも思っていません。どうしても生きることがつらくて自殺しようとする人に、「頑張って生きようよ」と言うつもりはありません。ただ、競争社会から脱落して自殺する人に対しては、自分も加害者の一人ではないかという気持ちが、少しはあります
こんな風に言ってくれる人が周りにいてくれると救われるなぁ、と感じてしまいました。
社会的には、「自殺はダメ」ということになっています。もちろん、その気持ちも分かるつもりです。そりゃあ、自殺があるよりない方が良いに決まっています。
しかしそんなことを言ったって、「死にたい」という気持ちが消えるわけではありません。「自殺はダメだ」と言われる時、それがどれだけ優しさから来る言葉であっても、自分の感覚が否定されたような気持ちになってしまいます。そしてますます、自分の気持ちを表に出しにくくなるのです。
これ以降は、ブログ「ルシルナ」でご覧いただけます
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