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【要約】福岡伸一『生物と無生物のあいだ』は、「生命とは何か」を「動的平衡」によって定義する入門書の良書

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福岡伸一の『生物と無生物のあいだ』『動的平衡』から「生命の本質とは何なのか?」を理解する

この記事では、『生物と無生物のあいだ』(講談社)、『動的平衡』(小学館)という、福岡伸一の2著作を併せて紹介していく。どちらも「生命とは何か?」がテーマとなる作品であり、最も重要なキーワードが「動的平衡」だ。「動的平衡」という、日常でなかなか聞くことのない概念を理解しながら、「生命が生命として存在することの本質」がどのように捉えられているのかを理解していこう。

「生命の定義」はなぜ難しい問いなのか

私たちは生きている。つまり当然、私たちも「生命」だ。では「生命」はどのように定義されていか知っているだろうか? 心臓が鼓動している、子孫を残す、呼吸をするなどなどいろいろ思いつくかもしれないが、残念ながらそのどれもが「生命」を正しく定義するのにしっくりこない。

さて、生物学の知識がない方でも、「DNA(デオキシリボ核酸)」のことは聞いたことがあるだろう。遺伝情報の容れ物のようなものであり、ワトソンとクリックがその「二重らせん構造」を解き明かしたことから、その後の「生物学」のアプローチがまったく変わった。それまでは、生きている動物を追い回しその生態を調査する学問に過ぎなかったのだが、DNAを解析したり操作したりすることで生物の様々な構造・機能を理解する分野へと変貌を遂げたのだ。

そんなDNAを使って生命を定義する考え方がある。それが、

生命とは、自己複製を行うシステムである

というものだ。これは、リチャード・ドーキンスが提唱した「利己的な遺伝子」という考え方を踏まえると理解しやすいだろう。

さてここで、「生命が生存することで誰が最も利益を得ているか?」について考えてみよう。質問の意味が分からないかもしれないが、とりあえず読み進めてほしい。例えば人類に限ってみても、「自分自身」「家族・友人」「人類全体」「地球の生命すべて」など色んな選択肢が浮かぶのではないだろうか。自分がこの世に生きていることで、自分自身にとってもプラスだし、周りの家族や友人にとっても価値を与えているかもしれない。広い意味で言えば人類全体に貢献しているだろうし、あるいは地球のすべての生命がお互いに影響し合って生きていると考えることもできるはずだ。

さて、ドーキンスはこの問いに対して、「最も利益を得ているのは『遺伝子』自身だ」と主張した。これが「利己的な遺伝子」である。人間に限らず、あらゆる生命はすべて「遺伝子の乗り物」に過ぎず、それぞれの個体の存在に価値があるわけではない。遺伝子がそれぞれの個体を「乗り物」として未来へと存続し続ける、そのことが「生命」の存在意義だ、というのである。そして「遺伝子」は、その目的のために「利己的」に、つまり「遺伝子自身の存続だけ」を考えて「生命」という個体を維持しようとコントロールしている、と彼は考えているのだ。

つまり、「『遺伝子(DNA)の存続』こそが最重要であり、その手段として『遺伝子(DNA)の自己複製』がある。そしてその『遺伝子(DNA)の自己複製』こそが『生命』の定義になり得るのではないか」という考えである。

これは、20世紀の生物学がたどり着いた1つの到達点であり、一定の説得力を持つものとして受け入れられた。確かに、「DNAを持ち、それが自己複製する」という定義はあらゆる生命に当てはまりそうだし、このような捉え方は妥当に思われるだろう。

しかしその後、この定義を揺るがす存在が知られるようになっていく。それが「ウイルス」である。私たちにとっては、コロナウイルスやインフルエンザウイルスなど、様々な感染症を引き起こすものという理解だろう。そしてこの「ウイルス」こそ、まさに「生物と無生物のあいだ」にいる存在なのである。

コロナウイルス関連のニュースに触れる機会があれば耳にする機会も多いだろうが、ウイルスは自己複製能力を持つ。ウイルスは自分の細胞を持たないので、そのまでは増殖できないが、人間の体内など「宿主」の中に入り込み、そこで「他人の細胞」を利用して自分の「遺伝情報」を複製していくというわけだ。

さて、20世紀生物学がたどり着いた定義を踏まえれば、ウイルスは「生命」ということになる。しかし、本当にその捉え方は正しいだろうか?

ウイルスの「自己複製能力」以外の性質を知ると、とても「生命」とは思えないはずだ。ウイルスは栄養を摂取せず、呼吸もしない。酸素を取り入れることも、老廃物を排出することもせず、いわゆる「代謝」と呼ばれる行為がまったくないのだ。また、ウイルスを純粋な状態で精製、特殊な条件下で濃縮すると「結晶化」するという。既存の科学の常識では、「結晶化」が起こるのは「無生物」である物質の場合だけで、通常の生物では考えられない現象なのだ。

もしも、「生命とは、自己複製を行うシステムである」という定義を受け入れるのであれば、「ウイルス」も「生命」と捉えるしかない。しかし「ウイルス」は、私たちがなんとなくイメージする「生命」とはあまりにかけ離れた存在だ。それがどんなものであれ、「言葉の定義」は私たち人間自身のためにある。私たち自身がしっくり来ない定義を採用することに価値はないだろう。つまり、「生命とは、自己複製を行うシステムである」という定義は、「生命の定義」として十分ではないと判断するしかないということになる。

福岡伸一の2著作は、これらの疑問を踏まえた上で、どのようにして「新しい『生命の定義』」を生み出すかが展開される作品なのだ。

「生命の定義」について、著者はこんな例を挙げて私たちの「意識」に焦点を当てる。砂浜を歩いている時のことを想像してほしい。そこには様々な小石や貝殻が散らばっているだろう。私たちは「小石」を見れば、すぐに「無生物」だと判断できる。一方、「貝殻」を見れば、「無生物だが、かつて生物だった」と一瞬で判断できるはずだ。

つまり私たちは、何らかの基準にしたがって「生物」「無生物」を判断しているのである。その際に私たちが意識しているものは一体なんなのか、そしてそれは生物学の中でどう定義されるべきなのか。

そのような問いを背にして、福岡伸一は歩みを進めるのである。

「動的平衡」こそが「生命」を定義する新たな概念

「動的平衡」は、福岡伸一が提唱した概念だ。そしてこの「動的平衡」を踏まえた上で彼は、

生命とは、動的平衡にある流れである

と定義する。

「動的平衡」というのは、漢字のイメージ通りだが、「部分部分では変化がある(動的)が、全体としては釣り合いが取れている(平衡)」という意味だ。

例えば「川」をイメージすると分かりやすいだろう。川では常に水が流れている。流れる水が、岩を小石に変え、岩壁を少しずつ削り、様々なものを下流へと押し流していく。これは「動的な変化がある状態」と言っていいだろう。しかし「川全体」を捉えた場合、川が流れる場所や流量、水の勢いなどに大きな変化はない。つまり、「細部では様々な変化が起こっているが、それらがバランスを保つことで全体としては平衡状態にある」というわけである。

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