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【観察者】劣等感や嫉妬は簡単に振り払えない。就活に苦しむ若者の姿から学ぶ、他人と比べない覚悟:『何者』(朝井リョウ著、三浦大輔監督)

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「就活」から逃げた私は、この物語の”傍観者”にしかなれないが、それでも凄まじく共感させられる

私は、就職活動も転職活動もしたことがない

まずは少し私自身の話をしたいと思います。

私は現在38歳ですが、これまで、就職活動も転職活動も一度もせずにここまで生きてきました。フリーランスではなく一応常にどこかしらの会社に属しているし、正社員だったことはありませんが、ずっとアルバイトというわけでもありません。本来なら就職活動や転職活動をしなければならない場面でも、なんとか上手いことそれらを避けてきました。

自分には就職活動なんて乗り切れるはずがない、と思い悩んで大学を中退し、その後15年近くフリーターを続け、それからは一応契約社員みたいな感じで色々転々としているという感じです。「職選び・職探し」という点で真剣さを一度も発揮しなかった割には、それなりに上手いところに落ち着いているなぁ、とは思っています。

つまり、「就活」がどれほど苦しく、どんな風に人間を変質させるのかを経験していません。

だから私は、この小説も映画も、「メッチャわかる」「自分もそうだった」みたいに自身の体験と照らし合わせて共感するような受け取り方はできないと感じました。しかしそれでも、「就活」というメガネを通じて、今の時代や人間関係のリアルみたいなものを炙り出してくれる作品で、そういう部分に関してはもの凄く共感できる作品です。

とりあえず、「この記事を書いているのは、『就活』から遠い人間なのだ」ということは頭に入れて読んでいただけるといいと思います。

本・映画の内容紹介

拓人は、就職活動をスタートさせる。同居人である光太郎は、ボーカルを務めるバンドの卒業ライブを先日終え、そのまま髪を黒く染めた。2人の共通の友人で、ちょっと前に留学から戻ってきた瑞月と話している中で、瑞月の友人・理香がたまたま2人の1つ上の部屋に住んでいることが判明し、だったら4人で就活対策をしよう、と意気投合する。理香は、付き合い始めたばかりの隆良と同居しており、理香の部屋を対策本部として、5人で就活の準備に立ち向かうことになった。

就活開始前から練習用のESを作成したり、面接対策を行ったりする者もいれば、何かやらなきゃと思いながら手をつけられない者もいる。企業に就職しようとする者もいれば、就活はせずに自由な生き方を模索する者もいる。

ESや面接で落とされ続けて努力の仕方が分からないと迷ったり、内定が出た友人を祝福できなかったり、就活と並行して家庭の事情にも対応しなければならなかったりと、同じように「未来をどう生きていくか」を考えている者同士でも、歪み、ねじれ、すれ違うような日々が続くことになってしまう。

「みんなに見せる顔」と「SNSで見せる顔」を使い分け、「内定」という聖杯を奪い合う者たちの協働と競争は複雑に交錯していく。

「就活」という門をくぐる者たちに強制的に降りかかる変化と、そんな変化の只中で踏ん張る若者たちを、煌めくような繊細さで切り取る物語。

朝井リョウという作家の「『今』の切り取り方」の凄さ

私は、朝井リョウの小説をいくつか読んでいるのですが、そのどれにも共通すると感じるのが「『今』の切り取り方」の上手さです。

小説でも映画でも同じだと思いますが、分かりやすく「今っぽさ」を打ち出すのに、「固有名詞」を多用するという手法はあるでしょう。ある種の固有名詞は時代と結びついており、そういう固有名詞を使うことで、それに付随する時代の光景をパッと思い浮かばせるというやり方は、「今」を切り取るという意味で分かりやすいと言えます。

でも、朝井リョウは、そういうやり方をしません。正確な記憶ではありませんが、朝井リョウの作品には、「時代を象徴するような固有名詞」はほとんど出てこないと思います。

それなのに、凄く「今っぽい」。これが朝井リョウの作品の凄さだなぁ、といつも感じます。

私が思う、朝井リョウの「『今』の切り取り方」のポイントは、「どこから時代を見るか」という「視点」にあると感じます。写真や映像で言うなら「アングル」でしょうか。

まったく同じ光景を前にしても、どの方向から、どの角度から見るかによってまったく違う印象になるでしょう。朝井リョウは、「今の時代を切り取るならこの角度がベスト」というアングルを的確に見定めて、それをシンプルで本質を衝く言葉で表現する能力にもの凄く長けていると感じます。そしてそれが、作品の「今っぽさ」に繋がっている、というのが私の分析です。

この作品でも、「SNS」や「就活」など、選んでいるテーマそのものがある種の現代性を帯びるという要素は確かにありますが、それ以上に、どこに「視点」を置くのかという朝井リョウの選択にこそ「今」が現れていると感じます。特に、後で詳しく触れますが、この作品においてその「今っぽさ」を体現する人物が拓人であり、拓人の視点から物語が俯瞰されることによって非常に奥行きのある作品に仕上がっていると感じました。

拓人は、常に誰かの言動を客観的に分析してしまう「観察者」です。この拓人の立ち位置は、SNS上で誰もがコメンテーターのようになれてしまう現代性や、自分ごととして真剣にならなければならない「就活」に対してどことなく距離を感じてしまう精神性など、この作品を「今っぽく」仕上げるための非常に重要なファクターとなっています。

また本書は、「就活」という特定のテーマを持つ作品でありながら、そのテーマを掘り下げることで、「人格の分離」という恐らく誰にでも関係のある普遍的な事柄も抉り出していきます。

SNSの登場によって、私たちはそれまで以上に「様々な顔」を持つことができるようになり、それ故に自分の人格は分離していると言ってもいいでしょう。しかし、日常生活を送る上でその不都合さはあまり表に出てこないし、当たり前の毎日を送れてしまいます。

ただ「就活」のような、「人格の分離」を嫌でも意識させ強調させられもするイベントによって、日常は大きく変わってしまいます。この物語では「就活」がそのキーとなるイベントとして描かれるわけですが、同じ機能を持つイベントは決して「就活」だけではありません。誰もが何らかのきっかけによってこの物語のような「人格の分離」を否応無しに意識させられるでしょうし、その時に自分がどう振る舞うのかを考えさせるだろうと思います。

そういう意味でこの作品は、決して「就活」だけの物語ではない、と言えます。

「就活」に対峙する若者たちのリアル

作品のメインとなる「就活」は、登場人物たちを様々な形で揺さぶることになります。「正解」が何なのかまったく分からない中でもがくしかない、という悲哀や諦念や奮起などが繊細に描かれるわけです。

就職活動において怖いのは、そこだと思う。確固たるものさしがない。ミスが見えないから、その理由がわからない。自分がいま、集団の中でどれくらいの位置にいるかがわからない。

『何者』(朝井リョウ/新潮社)

やったことがないので想像ですが、就活では「ルールも基準も分からないまま評価され、合否が判定される」のでしょう。もちろん、正解らしきもの、対策らしきもの、アドバイスらしきものは多々存在するのでしょうが、それらが正しいのかどうかはほとんど誰にも分からないのだと思います。

そしてだからこそ、「内定をもらった人間が正解」という受け取りをするしかなくなってしまうのでしょう。

なのに、就活がうまくいくと、まるでその人間まるごと超すげぇみたいに言われる。就活以外のことだって何でもこなせる、みたいにさ。

『何者』(朝井リョウ/新潮社)

確かにこれは辛いでしょう。ちゃんと「内定」をもらっている奴はいて、でも何だかよく分からないけれど自分は面接で落とされ続けて、何をしたらいいんだか全然分からない、という状態に陥ってしまうのも仕方ないだろうと思います。

就活をしている人は、地図を失っているように見える

『何者』(監督:三浦大輔 主演:佐藤健)

自分が向いている方向が正しく「前」なのかどうかさえも疑ってしまうでしょうし、大海原で遭難しているような感覚にだってなってしまうでしょう。まさにタイトルの通り、自分は「何者」なんだろうと自問する日々だろうと思います。

小説でも映画でも、登場人物の誰かに共感してしまうことでしょう。誰に共感するかは人それぞれだと思いますが、この作品の凄まじい点は、誰に共感してもどこかで斬られてしまうという展開です。

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