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読書感想文:職業としての小説家

またまた、村上春樹さんの本です。
職業としての小説家という、村上さんが小説家について語った本です。

でも、私のように小説家でない人にも響く言葉、役に立ちそうな言葉が沢山ありましたので、また備忘録として、ここに記録を残したいと思います。

小説家ではなくても、こうしてnoteに様々な記録を残し、誰かに読んでもらえるということは、感覚としては少し近いものがあるのではないかという気もしました。

まず、村上さんの考える「オリジナリティ」について。

自分のオリジナルの文体なり話法なりを見つけ出すには、まず出発点として「自分に何かを加算していく」よりはむしろ、「自分から何かをマイナスしていく」という作業が必要とされるみたいです。

職業としての小説家 p98

私自身も、自分のnoteに、

「削ぎ落として、必要なものだけにできたら、
きっと身軽で、純度の高い自分になれる。」

と書いたことがあったのですが、「自分」という存在をより際立たせようと思ったら、足すよりも削ぎ落とす作業の方が有効だろうな、という気がします。

そして、本当に書きたいものが出てきた時に書くこと。

それは、勢いと情熱とメッセージを含んでいるために、読者の心に届きやすい。

例え、それが少数派にしか受けなかったとしても、
世の中に残っている古典派と言われる作品達は、最初は当時の観客からはよく思われなかったことも多かったようです。

でも、本物だけは残る。
ある意味、時間がたたないと本物かどうかは分からない、とも村上さんは仰っています。

また、一発屋で終わらないこと。
ある程度の質の高いものを一定量は残すこと、
これもオリジナリティを定義する上では必要なことだと述べています。

もうひとつは、物事にすぐ結論を出さないこと。
「そのまま」の状態をある程度放置しておけるか。

明確な結論をすぐに出したがる人は、小説家ではなく、評論家やジャーナリストに向いているようです。

確かに、この人はこういう人に違いない、と思っていても、後から意外な一面を発見するなんてことはざらです。

また、物事にしても、良いと思っていたことが、後々こんな不具合や影の部分を含んでいたのか!ということもざらにあります。

そのまま、ありのままの事実として、脚色したり、結論付けしたりせず受け止める力というのは、小説家でなくとも、私達人間にとって必要な力であるいうな気がします。

また、村上さんは書いたものを何度も改良していくそうです。
時間をおいて、(村上さんは「養生する」と例えています)読み返すと、また新たな改善点が見つかったり。

私も、自分の書いたnoteを書き終わってすぐ投稿することもあるのですが、1日~長いと何ヵ月か寝かせてから、投稿することが多いです。
(その割りに誤字脱字が多いのですが笑)

時間をおいて、自分が自分の書いたものを読者として眺めてみると、ここは不要だな、とか、ふとしたときに、あの文章を足そう!とか思い付いたりします。
(村上さんとは比べものにならないくらいの作業ですが)

また、「走ることについて語るときに僕の語ること」にもあったのですが、自分の中にある混沌に向かう時は、やはり、フィジカル面での体力や健康が重要であること。

フィジカルな力とスピリチュアルな力は、
バランス良く両立させなくてはならない。

それぞれがお互いを有効に補助しあうような体勢にもっていかなくてはならない。戦いが長期戦になればなるほど、このセオリーはより大きな意味あいを持ってきます。

職業としての小説家 p185

村上さんはこのように書いています。
小説を書くことだけではなく、生きていく上でも言えることのような気がします。

また、私が一番共感したのは、学校について書かれた章です。

村上さんは、高校生のころから英語の原文で本を読んでいたそうなのですが、学校での英語の成績は良くなかったそうです。

逆に、英語の成績の良い生徒で、英語の原文で本を読める生徒はいなかったと。

日本の高校における英語の授業は、生徒が生きた実際的な英語を身に付けることを目的として行われてはいないのだということでした。
じゃあ、一体何を目的としているのか?
大学受験の英語のテストで高い点数を取ること、それをほとんど唯一の目的としているのです。

職業としての小説家 p196

今は学校教育も進化しているのかもしれないのですが、私が高校生だった頃は、英語に限らず全ての科目においてこのような傾向があったように思います。

何のために「英語」を習うのか。
目的がハッキリしていれば、やり方学び方もまた異なるものなのかもしれません。

また、体育の授業では、やりたくもない運動を無理やりやらされて、苦痛でたまらなかったけれど、
社会に出てから、自分の意思でスポーツを始めたら、やたら面白いと、書いています。

この感覚も分かります。

村上さんは、
「学校の体育の授業というのは、人をスポーツ嫌いにさせるために存在しているのではないのか、そういう気さえしました。」と書いています。

まあ、全員が全員そういう訳でもないとは思うのですが、(体育が好きな生徒は、どの時期にも一定数いましたし)私は、村上さん寄りの人間です。

今の学校制度については分からないのですが、
私が共感した言葉に、

僕が経験してきた日本の教育システムは、僕の目には、共同体の役に立つ「犬的人格」をつくることを、ときにはそれを超えて、団体丸ごと目的地まで導かれる「羊的人格」をつくることを目的としているように見えました。

職業としての小説家 p200

というものがあります。すごく分かるなあ、と思いました。

そしてその傾向は教育のみならず、社会や官僚組織を中心とした日本の社会システムそのものにまで及んでいるように思えます。
そしてそれは-その「数値重視」の硬直性と、「機会暗記」的な即効性•功利性は-様々な分野で深刻な弊害を生み出しているようです。

職業としての小説家 p201

日本は小さな島国なので、国民の意識や方向性を一致させる必要があったのかもしれませんね。

でも、時代は個の時代に入り、社会が求める人間像も変わってきているような気がします。

暗記型の教育を受け、個性を出さないように出さないように、生きて来た私のような人間にとって、今さら個性を出しなさいと言われても、苦しみを感じる時もあります。

でも、もちろん、自分らしさや想像性を押し潰されることの方が辛いのですが。

その点、本の世界や、こうしたnoteのような文章の世界は自由で(今のところ)、男女、年齢、立場等関係なく、精神性の惹かれた人同士の心の交流ができるので、素晴らしいことだな、心の逃げ場になるな、と感じています。

村上さんも、学校以外の心の逃げ場としての「個の回復スペース」が必要だと、本書で述べています。

全ての子供に想像力は必要ないかもしれないけれど、(色々な人がいてこの世は成り立っているから)「想像力を持っている子供たちの想像力を圧殺してくれるな」と、村上さんは述べています。

私も、授業中、窓の外を見てすぐに想像の世界に飛んでいってしまうような子供でしたので(今も)、この気持ちは、痛い程分かるのです。

長くなりましたが、最後に、このnoteを続けていく上でも励みになりそうな言葉を引用して終わりたいと思います。

リック•ネルソンの後年の歌に「ガーデン•パーティー」というのがあって、その中にこんな内容の歌詞があります。

もし、全員を楽しませられないのなら
自分で楽しむしかないじゃないか

職業としての小説家 p253

私も、自分が興味のあること、自分が面白いと思うことや心からの本音を記事にしています。

村上さんは、小説を書く上で「気持ちの良さ」と「楽しさ」は、変わっていないと言います。

もし楽しくないのなら、そもそも小説なんて書く意味がないだろう、と述べています。

記事だけでなく、生き方にも言えることですが、
誰もを納得させること、好感を持ってもらうことは、不可能なのだから、自分で納得し、自分で楽しいと思える生き方をしたいなあ、と読み終わって思いました。





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