[書評]J.D.サリンジャー「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」
グラース家の長兄、麒麟児のシーモアが自殺するナイン・ストーリーズの冒頭から、時間軸的には前後するが、『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』というその名も美しき作品は、結婚式をボイコットする長兄を、次男のバディが切々と語りつくす作品だ。時にバスルームで開くシーモアの日記からは、その溢れんばかりの知性の香気が感じ取れもする。次男のバディはあっさりとシーモアを視ようとして、実はかなり熱心に、追慕が頭をもたげるところが、とても愛らしく、そのような筆致で描けるサリンジャーという書き手を素晴らしいと思う。
シーモアの死、それはシーモアが結婚式を「幸福すぎるゆえに」という正常な感覚からすれば気狂いめいた理由で欠席するところからも、いわゆる一般的な「死」とはまた異なるような気もする。自らの天分、完璧な世界、完璧な幸福を手にした者は、もはや望むもののない澄み渡った絶望を経験するように思う。
そう思うとことさら、シーモアの日記の記述は面白い。『ライ麦』以降のサリンジャーは、東洋哲学に傾倒してゆくことは言わずと知れているが、この作品の中にも、その哲学に浸った、わたしが非常な滋味を感じた文章があるので紹介しておこうと思う。シーモアが、婚約者の母から除隊後(時は第二次大戦のころだった)何をするのか、何になるつもりなのか?と訊ねられるシーンだ。
パートナーとその母親との夕食の席での冗談にしてはあまりにも攻めすぎていることは明白で、それは「ひとひねり」で首を脱臼する勢いだが、ここにはシーモアのもつ東洋的論理が潜んでいる。われわれは、ミュリエルとフェダー夫人とともに、それを待たねばならない。
死んだ猫には誰にも値段がつけられない、という突飛な論理が、シーモアには冗談でもなんでもなく、ただの真理なのだ。傍点付きのただの真理。それは常人には解説付きでやっとのことで吞み込める巨大なものであり、その巨大さが総じて常人と彼を隔てる。
p.97からp.98にかけてのシーモアのミュリエルに対しての推測の入り混じった描写はそれこそ圧巻と言えるが、これは読んだ者の特典とでもしておきたい。
私の傾向として、書きすぎたり、文章や論理がいびつな形をしていたり、それに対して自省的な眼線を持つ作家が好きだ。サリンジャーはその特徴の旗手とも言えるだろう。書きすぎること―その過剰なる装飾に作家がはたと立ちどまって、自らの文章を振り返って凝視すること。書きすぎるという行為は、私たちが言葉を出力するプロセスそのものの可視化のようなもので、あれこれ悩んだ末に何も言わない、とか、物思いの中で相槌をうつケースにそれは似ている。ゆえに、書きすぎることは、美しく、また、人間臭いことのように思われるのだ。
それを丹念に、悪く言えば執拗に行うサリンジャーの手際は、『ライ麦畑でつかまえて』の時から一貫していて美しい営為と見える。
作家が文章を省みるという行為は文字になってしまうとなんだか嘘っぽいと感じられる。なぜならそれは作家、つまりフィクションライターによる見せかけ/ポーズとも解釈できる行為だからである。サリンジャーがそのうさん臭さと切れているのは、それが一貫した行為であることと、作中の人物が共通して持つある種のパラノイアックな雰囲気によるものだろうと考える。
文章、とくに文学の香り漂うそれはそのものがパラノイア[偏執症]と言えるだろう。ならばその偏執を突き詰めた先にこそ、文体の美の極致があると考えることもまた可能ではないか?と思ったりもする。
ことにこの作品は、そうしたサリンジャー的部分と、グラース家の家の香りともいえる、たとえば末っ子のブーブーのバスルームに残した「大工よ、」の落書き、窓敷居の上に無造作に置かれたスーツケースや、なかなか起動しない冷房装置という、何気ない景物が喚起する、さりげない一団の生活の姿が精妙なバランスを保ちながら並立している。そうしたところに私はいちいち感動し、書きすぎて立ちどまる自省的な語り手の覆面作家の肖像に憧れを抱きながらも、どうしようもなく何か書きたくなってこうして適当な書評未満のものを書き上げたというわけだ。