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【H】ネットでバカにされないための「積極財政」入門

「積極財政論」はネット上で急速に新たな「常識」となりつつあり、主に財務省を発信源としてマスメディア等で喧伝されている伝統的な考え方、すなわち、政府支出を税収の範囲に収めることを原則とする「財政均衡論」や、それを実現するために常に歳出削減と増税を志向する「緊縮財政(論)」は、ただただ「バカにされる」だけの対象となりつつある。この流れは、もはや逆転することはない。早晩、この「常識」の転換はリアルの世界にも一気に染み出していくことだろう。2024年の総選挙において、左から右まで全てのイデオロギー区分で積極財政派政党(中道の国民民主党・左派のれいわ新選組・右派の参政党)が躍進したことは、その予兆に他ならない。

人間、誰しも「バカにされる」ことは避けたいものである。だから、さっさと古い「常識」を捨てて、新しい「常識」を身につけた方がいい。この新しい「常識」を日本国民の多数が身につけることだけが、おそらくは日本と日本国民を救うことができるのだから、なおさらそうするべきである。そのために必要なのは、以下の記事を読み、少しばかり自分で考えてみること、それだけである。

以下では、経済や財政についての古い「常識」と新しい「常識」を整理して提示することを試みる。


1、古い「常識」としての財政均衡論・緊縮財政論

まずは古い「常識」としての財政均衡論・緊縮財政論の主張を振り返っておく。

「財政均衡論」とは、私たち個々の家計がそうであるのと同様に、政府も支出と収入を均衡させる(一致させる)べきであるという考え方である。古い「常識」によれば、政府の収入は税金だから、これは政府支出を税収の範囲内に収めるべきだということを意味する。

古い「常識」によれば、この均衡が崩れ、支出が税収を上回って財政が赤字になると、政府は借金をする必要がある。国債の発行だ。日本では、税収以上の支出、すなわち、「財政赤字」が常態化しており、「国債の発行残高」=「累積の財政赤字」はついに1000兆円を超えてしまった。

1000兆円超の借金!古い「常識」によれば、これは大変な事態である。借金は返済しなければならないし、返済しきれないほどの借金をしてはならない。1000兆円はもうほとんど返済しきれそうにない。だから日本政府は、一刻も早く支出を税収以下に切り詰め、「財政黒字」を稼いで借金を返済していくべきだ。財政再建・財政健全化まったなし。そのために必要なのは歳出削減と増税である。このように国が「ケチ」になること、それを「緊縮財政」という。

さて、事実として、政府はプライマリーバランスの黒字化を目標として掲げている。プライマリーバランスの黒字化とは、国債の元利払い費を除いた政府の支出を税収の範囲内に収めること、すなわち、財政を均衡させることを意味する。それは元利払い費を含めた全支出を税収の範囲内に抑える完全な財政均衡への第一歩である。

かくして、古い「常識」は本質的には死んでいるのだが、まだ政府の目標の中で生きている。これに対して、私たちは「お前はもう死んでいる」、そう言ってやらねばならない。

2、新しい「常識」としての積極財政論とその基礎

さて、では、新しい「常識」ではどのように考えるのか。それはまず、「政府の支出を政府の収入である税収の範囲に収めるべき」とする「均衡財政論」を否定する。なぜか。まずもって、政府にとって「税は財源ではない」からである。まず、この点から始めよう。

2-1、税は財源ではなく、通貨の流通根拠である

「税は財源ではない」というのは、少し考えてみれば簡単な話である。「税が財源である」として、そこで徴収される税自身の財源が究極的にはどこにあるかを考えてみればいい。

日本は「円」で税を徴収しているが、円は米や魚のように、田んぼに生えていたり、川を泳いでいたりしない。円は、日本国政府が円を通貨の単位として決定し、その円をいくらか発行して初めて存在するようになる。そのあとで初めて円での徴税が可能になる。政府は税を財源として扱うこともできるが、そうして集められる税そのものの財源を問うていけば、円が自然の産物でない以上、究極的には、政府による円の発行、通貨発行に行きつかざるを得ない。そういうわけで、究極的には税は財源ではあり得ず、究極の財源は常に政府の「通貨発行」なのである。

他方、急いで付け加えなければならないのは、税は究極的には財源ではあり得ないにしても、別の欠くべからざる機能があるということだ。それは財源としての通貨発行の先に関わる問題だ。政府は円という通貨単位を決定し、円を発行する。だが、人々はなぜ「円」などという「紙切れ」を受け取る必要があるのか。

それについての一つの仮説が、政府が国内に住む人々に対して強制力を持って円での税を課し、円を税として受け取るから、というものである。政府が税として円を受け取るからこそ、税を課された人々は円を受け取り、彼らが円を受け取るからこそ、彼らから財やサービスを購入したい人も、その支払いに充てるために円を受け取る。

こうして通貨が流通するのであり、したがって、税は財源ではないが、たしかに通貨の流通根拠ではある。通貨が現代世界において基本的に国家単位で流通していることを考えるとき、通貨が流通することにとって国家の役割が大きいことは明らかであるから、これは一定以上の妥当性があると見做して良い仮説だろう。

税には他にもさまざまな機能があるとされているのだが、煩瑣になるのでここでは省略して、先に進むことにしよう。次は現代における「通貨発行」の実際について話をしたいと思う。

2-2、「お金の総量」=「借金の総量」、摩訶不思議な「債務貨幣システム」

この「通貨発行」だが、実は現代においては、大部分、(政府ではなく)民間の銀行が行なっている。その仕組みを「信用創造」という。

分かりやすさのために、まずは便宜的に、これを「又貸し」モデルで説明しよう。私たちが銀行に行って100万円を預金する。すると、私たちの通帳には100万円と記帳され、私たちは自分の資産は現金を持っているときと同じく100万円だと思う。

さて、銀行は、この預金のうちごく僅かな割合を日本銀行に預け、残りは貸し出しに充ててよい、つまり、又貸ししてよいとされている。その割合を法定準備率というが、これを仮に(実際よりだいぶ高く)10%とすると、銀行は100万円のうち、10万円を日銀に預けて、残りの90万円を貸し出すことができる。

これを銀行がAさんに貸し出しすると、Aさんの銀行口座には90万円の残高が記帳され、Aさんは、もちろん、最終的には返済しなければならないものとしてではあるが、自分は90万円を持っていると思う。こうして銀行が融資をすること、言い換えればAさんが借金をすることで、お金が生まれることを「信用創造」という。

ここで「お金が生まれる」と言えるのは、このとき私たちの銀行口座の100万円が10万円に書き換えられるなどということはないからである。私は100万円を持っていると思うし、Aさんは90万円を持っていると思う。だから、ここでお金の総量は190万円に増えており、90万円が新たに生まれている。

Aさんは90万円を持っているが、90万円の返済義務もあるから、実質は1円も持っていないと感じるだろうと言われるかもしれない。それは確かにそうだが、AさんがBさんから何かを購入して90万円をBさんの銀行口座に送金すれば、Bさんは90万円の返済義務のことなど知らないから、単に90万円を持っていると感じる。だとすれば、やはりお金の総量は190万円に増えたと考えるべきだろう。

Bさんの銀行口座に送金された90万円の預金を元手に、銀行がCさんに81万円を貸付け…ということを繰り返していくと、最終的なお金の総量は1000万円にまで膨らむことになる。100万円が1000万円に化けたのだ。これが「信用創造」の威力ということになる。このお金の膨張の仕組みのために、一斉に皆が預金を現金化しようとすると、銀行はそれに対応できないという「取り付け騒ぎ」も起こりうる。

以上は融資・借金が連鎖していく過程だが、これが逆回転することもある。すなわち、誰も新たに借金をせず、既存の借金の返済ばかりしていくことを考えるなら、借金の連鎖において次々とお金が生み出されていったのとは反対に、次々とお金が消滅していくことになる。これは「信用収縮」と言われる。

こうして、お金の存在は借金の存在に依存し、「お金の総量」=「借金の総量」ということができる。なんとも摩訶不思議なことに、現在の通貨システムは、借金によってお金が生み出されるという意味で「債務貨幣システム」なのだ。そこではお金の裏に常に借金がある。プラスの裏にはマイナスがあり、総計は常にゼロである。

このように借金を通じて生まれる貨幣は「信用貨幣」と呼ばれる。「信用貨幣」は、銀行システムの負債(融資に際して発行される「銀行預金」は、銀行にとっては引き出しに応じなければならないという意味で「負債」である)として生みだされる。

ここで、いや、「お金の総量」=「借金の総量」ではない、だって最初に現金100万円があったではないかと言われるかもしれない。

これに対しては二点の反論が可能である。

まず一点目として、最初に現金がある「又貸し」モデルよりも、最初の現金なしに融資による通帳記帳によって、お金が「無」から創造されるという考え方のほうが(たとえばイギリスの中央銀行であるイングランド銀行によると)実態に即しているとされていることがある。銀行は預金を「無」から創造したうえで、銀行間決済が必要となれば、中央銀行や他の銀行から借り入れをすることで決済をするというのだ。そこで銀行からの融資の場合と同様に、お金が創造される。もちろん、現金引き出しに応じるだけの現金の準備は必要であるにせよ、「無からの創造」の方が金融実務の方面からは妥当な見方だとされているのだ。

この「無からの創造」は、0から1を生み出すというよりは、むしろ+1と-1を同時に生み出し、総計は0のままという独特のものである。それは中性子(0)が陽子(+1)になって電子(ー1)を放出する、原子核のβ崩壊に似ているといえるかもしれない。

次に、反論の二点目として、「又貸し」モデルで最初に現金を要するにしても、この現金が、究極的にどこから来たのかといえば、先に確認した通り、円は畑で穫れたりしないので、政府の通貨発行以外にありえない。ここでのポイントは、現代においては政府もこの「債務貨幣システム」を採用しているという点だ。

現代世界において、政府は単に「紙幣を刷って」ばら撒くということはしない。その通貨発行は、「債務貨幣システム」に従って、つねに「債務=借金」という形式において行われる。すなわち、先に記述した銀行融資と本質的には同じ仕方で、政府は国債を銀行に引き受けてもらい、その代わりに銀行口座に預金を得るわけだ。ここでも借金を通じてお金が創造されている。

この銀行は、本来は中央銀行であることが筋であり、その場合、国債が中央銀行に引き受けられることによって、民間銀行の信用創造とまったく同様に、お金が創造される。他方、現在、国債を中央銀行が直接引き受けることは禁止されており、中央銀行が最終的に引き受ける場合でも、いったんは民間銀行を経由している。ただ、日銀によれば、民間銀行を経由する場合でも、民間銀行が新規の国債を買う前に、中央銀行は民間銀行から民間銀行が既に持っている国債を買い入れたり、準備預金を融資したりすることで、民間銀行に対して新規の国債購入用のお金を創造しており、最終的にはこのお金が政府の支出を通じて民間に流通することになる。だから、ここでも、国債という債務の発生と政府による支出を通じて、民間に流通するお金が発生するということに変わりはない。

この二点を通じて、基本的に現代世界において「お金の総量」=「借金の総量」であることが確認される。お金が借金の裏面としてのみ生まれる貨幣制度、摩訶不思議な「債務貨幣システム」が、事実として、現代の体制なのである。

2-3、財政均衡論・緊縮財政論はどう間違っているのか

ここまでの議論が、「基本的に政府の支出を政府の収入である税収の範囲に収めるべき」とする「均衡財政論」、そして、「政府の支出が税収を上回った結果としての財政赤字、その累積としての国債発行残高を減らすために、歳出削減と増税を行うべき」とする「緊縮財政論」に対し、どのような含意を持つのかを整理しよう。

まず、家計や企業と同様に「支出を収入(税収)の範囲内に収めるべき」ということに全く根拠がないことがわかる。政府は通貨を発行する力、通貨発行権があるのだから、支出を収入の範囲内に収める必要はない。よく用いられる言い回しを使うと、政府は、家計や企業のような「通貨の利用者」ではなく、「通貨の発行者」なのであり、自ずとそのお金のやりくりの仕方も家計や企業と異なってくる。「財政均衡論・緊縮財政論」は、この違いを認識せず、政府を家計や企業と同じように考えてしまう。「家計簿脳」と揶揄される所以である。

続いて、支出が税収を上回った結果としての財政赤字、その累積額としての国債発行残高についてはどう考えるべきか。それらを減らすために歳出削減と増税を行う「緊縮財政」を実行すべきなのか。もちろん、そうではない。

国の借金1000兆円と言われるが、以上で述べたことから分かる通り、政府はそもそも通貨発行権を持っており、その通貨発行が国債という借金の形態を取るのは、形式上のこと、政府があえて「債務貨幣システム」を採用しているからに他ならない。だから、それは本来、借金という形でなくてもよく、本質的には、返さなければならないものという意味での借金ではない。「政府債務残高は通貨の発行記録に過ぎない」と言われる所以である。

そして、現代世界が「債務貨幣システム」を採用している、つまり、借金を通じてお金が生まれ、お金の裏には常に借金がある、借金が返済されるとお金が消滅するということを踏まえることで、無条件の「緊縮財政論」の荒唐無稽さがより一層はっきりしてくる。すなわち、政府債務1000兆円の返済は、1000兆円のお金が民間から消失することを意味するのである。そして、私たちがお金と思っているものの総量であるマネーストックはだいたい1000兆円から1500兆円なので、緊縮財政による政府債務の完済は、いささか大袈裟にいえば、「円」の完全消滅を意味しかねないのである。

以上から、財政均衡論・緊縮財政論の無効性は明らかだろう。

しかるに、「均衡財政論」が無意味であり、無条件な「緊縮財政論」が荒唐無稽であるとすれば、政府の財政運営は指針を失う。それは何を目標とし、どんな規律でもって自らを律すればよいのか。

2-4、新しい財政規律としてのインフレ率

新しい財政規律を考える上での出発点は、そのときどきの経済規模(財やサービスの取引量)に対応して適切な貨幣の供給量が存在するということだ。取引される財やサービスの量に対して、貨幣の流通量が多過ぎれば、財やサービスの供給に対して需要が超過し、物価が上昇する。つまり、インフレが生じる。他方、貨幣の流通量が少な過ぎれば、供給に対して需要が過小となり、物価は下がる。つまり、デフレが生じる。

そして一般に、経済にとっては年率2~4%前後の物価の緩やかな上昇が望ましいとされる。これには、この程度のインフレ率のときに労働を含む財やサービスの需給が適度に逼迫して失業率が低い水準に落ち着くことに加え、ある程度のインフレ率がないと基本の金利水準が低く、すぐにゼロ金利制約によって金利操作による景気浮揚政策が機能不全に陥ること、また物価が上昇し貨幣価値が目減りしていくことが、債務負担を軽くし、また貨幣を財やサービスに替える行為である消費や投資を促進するという形で、前向きな経済活動への後押しになること、といった事情がある。

このことを逆転させると、デフレでは需要不足によって失業率が高止まりし、ゼロ金利制約により金融政策の景気浮揚効果がすぐに失われ、貨幣価値の上昇により、債務負担が徐々に重くなり、将来の値下げを見込んで消費や投資も抑制されることが分かる。前向きな経済活動が失われる。

なかでも最悪なのは、デフレは貨幣価値の上昇、すなわち、商品価格の下落であり、資本主義社会では人間も労働力という商品の一種であるから、デフレ下では人間そのものの価値が下がることである。デフレは人間の価値が貨幣の価値に従属する拝金主義社会を生み出すのだ。デフレ放置やデフレ誘導は、人間の尊厳に対する犯罪的行為と言わざるを得ない。

そもそも、せいぜいが「紙切れ」か「(銀行システム上の)電子データ」にすぎない貨幣自身には何の価値もなく、その唯一の価値は、それが回転することで実物的な財やサービスが確実に、そしてより豊かに、生産され流通していくことであるから、重要なのは貨幣を回転させることである。その点で貨幣価値が少しづつ目減りすることで、貨幣を手放すこと、貨幣が回転することを促すインフレの方が、経済の状態として本質的に望ましいのである。「金は天下の回りもの」という言葉は事の本質をついている。

さて、話を戻して、こうして望ましいインフレ率と、それを実現する貨幣供給量が存在することを認めると、必要なのは家計や企業の借り入れによる民間の「信用創造」と政府の「通貨発行」(国債発行による信用創造)でもって、適切な貨幣供給量を実現することだということになる。現在の貨幣供給量が適切かどうかは望ましいインフレ率が実現しているかどうかによって測られる。すなわち、インフレ率が財政規律となる。

政府としては、民間の経済活動の状況に合わせて、適切なインフレ率を実現するべく、財政金融政策を遂行していくことになる。その政策手段は、金利操作を行うことで民間の「信用創造」の量に間接的にある程度の影響を与えることができる中央銀行の金融政策と、「通貨発行」による貨幣供給と「税」による貨幣回収によって直接に流通する貨幣量をコントロールする政府の財政政策である。

もちろん、インフレ率を財政規律とすることを具体的にどう機能させるかという実行上の問題が存在する。それが現実的に困難であるという指摘もある。しかるに、現に実行されている財政均衡主義が原理的に間違っていることを考えれば、この新しい財政規律が実行上の問題を抱えているにしても、そのことは、この新しい原理を却下する理由にはならない。むしろ、この新しい原理を実行するためののより具体的な制度の検討と、その制度の実施を通じての改善を要求するだけである。

原理的に間違っており、これまでほとんど守られたこともなく、逆に本当に守ろうとすると、(第3節で説明するデフレ・レジーム下にある)現代社会においては社会を解体へと向かわせるであろう「財政均衡主義」と、実行上の困難さが想定されるものの原理的には正しい、この新しい原理であれば、後者を選ぶのが当たり前なのである。この実行上の問題を云々することで新しい原理を全体として否定しようとする人には、ではあなたが提案する財政規律はなんなのか?と問い返さなければならない。

こういうわけで、新しい「常識」においては、政府はインフレ率が2〜4%に達しないうちは、金融政策による金融緩和に加えて、積極的に財政赤字を出す「積極財政」を実行しつつ、他方でインフレ率がそれを上回らないように、状況に応じて適切に金融の引締めと財政の緊縮(累進課税等による自動調節を含む)を行うという政策指針が、正当化されることとなる。

もちろん、直近の日本の2%を超えるインフレ率を見れば、2000年から2020年までにかけてのように単純に積極財政が肯定されるわけではないことは明らかであり、より詳細かつ繊細な検討が必要である。本稿では、これに立ち入ることはしないが、私の考えでは、現代は次節で説明する「デフレ・レジーム」のもとにあり、政策の中長期的な基本的な構えは「積極財政」とするべきだと考えているし、また直近の政策の方向性云々とは関係なく、以上の議論を踏まえておくことは、非本質的な「財源」論などに拘泥せずに、正しい政策議論をするために必要不可欠なことである。

以上の議論は、MMT(現代貨幣理論)と呼ばれる理論の根幹部分を私なりに語り直したものである。それは、1971年のニクソン・ショックで金本位制が完全に終わった後の管理通貨制度に対応した貨幣理論であり、その貨幣論の部分は、国家が貨幣を発行し(貨幣国定説・主権通貨論)、それを流通させるためにこそ税金を課し(租税貨幣論)、そもそも貨幣の本質は信用(債務・借金)にある(信用貨幣論)といったポイントによって構成される。MMTは貨幣論に加えて政策パッケージをも含んでいるが、それは以上の貨幣論から直接に正当化されるとは思われないので、私はそれまで採用しようと思うものではない。しかし、以上に語り直された貨幣論の部分については、現代社会の根本事実として認めるべきだと考えている。

以下、第3節と第4節では、以上の議論に関連する二つの論点を扱う。すなわち、第3節では現代の先進国が置かれている状況としての「デフレ・レジーム」、第4節では真の財政制約としての「供給能力」について論じたい。

3、「インフレ・レジーム」から「デフレ・レジーム」への転換

論点の一つ目は、先進国は基本的にいわばインフレ・レジームからデフレ・レジームに転換していると思われることだ。

ここでいうインフレ・レジームとは、家計は借金をしてでも欲しいものがあるというほど消費需要が旺盛で、それに対応して企業も借金をしてでも投資したい事業機会を多数抱えており、結果として、民間の信用創造が活発で貨幣供給量が多く、経済が全体として需要超過気味で、常にインフレ圧力がかかっている状態である。

第二次大戦後にいま先進国と呼ばれている国々が体験した高度経済成長期は、そのような時代であった。そこでは政府の財政が均衡志向・緊縮志向を持つことは合理性がある。ここで政府が財政赤字を出しながら支出しても、それは需要超過を激化させてインフレを加速させ、民間が利用したい資源や労働力を実質的に横取りすることに他ならないからだ。いわば、実物レベルのクラウディングアウト(民間需要の追い出し)である。基礎的なインフラ整備など、よほどの公益性がない限り、政府の支出は抑制的であるべきだ。

だが、1970年から1990年のあたりで、電気・水道・ガス・道路・鉄道といった基本的なインフラ整備がいったん終わり、近代的な住宅や、自動車・家電などの耐久消費財の需要が一巡すると、このインフレ・レジームは終焉を迎える。それには人口動態の変化も関わっている。少子化と高齢化が進行したことも、需要を押し下げ、デフレ・レジームへの転換を引き起こしている

このデフレ・レジームにおいては、大々的なインフラ整備の需要もないし、人々も全体として見れば借金してまで消費をしようとはしない。人々の消費意欲が低ければ、売上の見通しが立たないので、企業も借金をしてまで投資をしようとしない。結果、民間だけで見ると新規の借金に対して借金の返済が優位し、貨幣供給量が減っていく。少なくともインフレ・レジーム化より、その傾向が強い。そして、この過小需要と貨幣供給量の減少が、物価の下落、貨幣価値の上昇、すなわち、デフレをもたらし、このデフレが、さらに上記の需要過小化のプロセスを加速させる。

このレジーム・チェンジに対応する形で、本来は均衡財政と緊縮財政を止め、2%から4%のインフレ目標までは財政赤字を出す拡張的・積極的財政政策に転換するべきだった。インフレ・レジームでは基本的な姿勢として緊縮財政が正当化されるが、デフレ・レジームでは基本的な姿勢は積極財政となるべきなのである。

そもそも、デフレ期というのは、政府にとってはボーナスステージなのである。デフレとは、さまざまな財やサービスを供給する能力を民間需要が使い尽くしていないことの結果であり、政府はその能力を政府支出によって動員し、さまざまな公共的な目的を実現できたはずなのである。

しかるに、日本は、この30年間、財政均衡論・緊縮財政論を採用して、このボーナスステージを使わなかった。少なくとも、使い切らなかった。

ここで使い切らなかったというのは、ある程度までなら使いはしたからである。その結果が、もちろん、1000兆円の国債残高だ。基本的な構えとして財政均衡論・緊縮財政論を採用しつつも、日本政府には国家と国民を破滅させないために最低限必要な理性は残されていたのだろう。

民間の通貨供給の停滞、民間の経済活動の停滞は、税収の減少を通じて必然的に財政に赤字化の圧力を加える。この30年間、日本政府はこの赤字化圧力の中で無理に財政を黒字化するところまでは行かず、いくらかは赤字が出るにまかせたことで、致命的な「信用収縮」、「円」の消滅、破滅的なデフレは一応は防がれたのだ。

だが、これも全て財政均衡論・緊縮財政論のもとで行われたから、そこでの財政赤字はあくまでも渋々であり、ギリギリ必要な最低限度であった。その証拠に、この30年間、日本では景気が少し上向くと、積極的な財政出動をやめ、消費税を増税する緊縮財政を繰り返してきた。そんな態度では、デフレ・レジームの反転することはできない。日本は30年間、デフレ・レジームのもとにあったということができるだろう。

この30年間のデフレ・レジーム下で何が起きてきたのか。それを次節で考えてみたい。

4、真の財政制約としての「供給能力」

デフレとは、物価の下落であり、貨幣価値の上昇である。物価が下がるのは、需要が供給に追いついておらず、財やサービスが売れ残るので安売りを強いられるからである。そこでは労働力としての人間も売れ残り、安売りされることになる。

このようなデフレ状況の最大の問題は、供給より需要が少ないと、供給が少ない需要に合わせて収縮し、長期的に、財やサービスを作り出す力である供給能力が毀損されていくことである。

日本では、民間経済のデフレ・レジームへの転換に合わせて、政府が積極財政に転換して、政府支出でもって経済全体をインフレ・レジームに反転させることをしなかった。

それで何が起きたのか。

たとえば、就職氷河期世代の人々には、就職市場で売れ残り、安定した職業について職業上の能力を向上させることができなかった人もいるだろう。それは経済全体の供給能力を下げる結果になっている。

たとえば、大学関係の予算は削られ続け、日本の研究能力の世界ランクは下がり続けている。高度な科学技術や教育は、供給能力の基礎である。

たとえば、必要以上の公共事業の削減は、建設業者を倒産に追い込み、そこに蓄積されていた技術を失わせてしまう。その一度失われた供給能力をもう一度形成するのは大変なことである。供給能力が細っているなかで、高度成長期に作られたインフラの劣化が著しくなっていくと、その適切な改修やリプレースを進めることができるのか、このままでは不安である。

さらには、たとえば、デフレの中で労働力としての人間の値段である賃金も下がり続け、家族形成が困難になり、少子化が進んでいる。「人間」こそ、あらゆる供給能力の根本なのだが、新しい子供たちが生まれてくることができず、いまや人手不足が云々される世の中になっている。

要するに、日本はデフレ・レジームを放置することで、どんどんと供給能力を細らせてきたのである。

しかるに、この供給能力、実際に物やサービスを作り出す力こそ、最も大事なものなのだ。インフレ率こそが唯一にして真の財政規律だが、インフレが生じるのは需要が供給を超えたときであり、供給能力が小さければ、少しの需要でインフレが起きてしまう。とすると、財政制約はインフレ率なのだが、そのインフレ率を規定しているのは供給能力の大きさだということになる。(余剰)供給能力が、いわば真の意味での政府の財源なのである。

あるいは、国際的な通貨の信認についても考えてみるといい。円が日本国内で流通するのは、まず第一には日本に住む人は円で納税しなければならないからだ。だから、日本に住む人は円を受け取る。そうして、日本に住む人が円を受け取るから、日本に住む人が生み出すものを買いたい人も円を受け取る。こうして通貨の信認が広がっていく。

外国の人の場合は、円で税を払う必要はないから、円を受け取るとすれば、それは日本に住む人から何かを購入するためである。国際的な円の信任を支えているのは、日本に住む人たちの供給能力に他ならない。日本が供給能力を支えるインフラや教育が行き届いた国であり続け、日本に住みたいと思う人が多くいる住みよく愛される国であり続けることが、究極的には円の信認を支えているのである(もちろん、そもそも国際的な円の信認などにあまり依存しすぎないように重要なものは可能な限り自給すべきである)。

ここまで考えてくると、これまでの30年間の日本の愚かしさが明らかになる。そもそもお金など政府にとってはどうでもいいものである。政府はお金を作れるのだから。だが、政府はどうでもいいお金のやりくり、支出と収入の帳尻合わせに汲々として、慢性的なデフレを放置し、それによって最も大切なものである供給能力、実際に財やサービスを作り出す能力が毀損され細っていくことを放置してしまった。私はまだ円の信認が根本的に問題になっているとは思っていないが、今後円の信認がもし揺らぐということがあるとすれば、そのこともこの放置の結果でしかありえないだろう。

この30年の過程で失われた無数の可能性、その大きさは想像を絶するほどである。供給能力が失われるとは、それに関わって働く人のさまざまな活躍の可能性が奪われることであり、そこで供給される財やサービスを消費する人のさまざまな享受の可能性が奪われることである。その無数の可能性の剥奪、そこにこそ「失われた30年」の真の「失われ」があるのだ。

5、「高圧経済」、そして「積極財政はヒューマニズムである」ことについて

以上の認識と整合的な政策体系は様々ありうると思うが、ここでは近年、よく語られる経済政策である「高圧経済」を紹介しておく。これは、上記のデフレ下で起きたこと、過小な需要に合わせて供給能力が収縮していくことと、まさに真逆のことを政府の力で引き起こそうという政策である。

デフレ・レジーム下の先進国にあっては、民間経済だけでは借金をしてまで何かを買ったり(消費)、何かを事業を起こしたり(投資)しようとする意欲が足りず、お金の総量が減り、需要過小がデフレを引き起こす。そこでは供給が需要に合わせて収縮していく縮小均衡が生じる。

ここに政府の出番がある。そもそも、需要が不足しており、使われていない供給能力、使われていない労働力がある状態は、政府にとってはボーナスステージだ。そこで政府が支出を行い、供給能力を少し上回る程度にまで需要を高める。そうすると大きい需要に追いつこうと効率化などの生産性向上が進んで供給能力が高められるし、就業機会が与えられることが労働者にとっては後々の供給能力を高めるような訓練の機会となり、またそのような支出は国家としての供給能力を高めるようなさまざまなインフラ等の整備にも使うことができる。

このような政策が、需要を高めて供給能力に高い「圧力」をかけることで、供給能力そのものの長期的な増大を図るものだという意味で「高圧経済」と呼ばれる。それは失われた30年とは反対に、労働する人の様々な活躍の可能性と、消費する人の様々な享受の可能性を、政府の力を用いて最大限に開花させようとする政策である。

日本は、この30年間、デフレ・レジームのもとで供給能力を細らせてきた。その最たるものが少子化である。人間の価値が下がる社会で、子供が生まれてくるわけがないのだ。私は、このままの緊縮財政路線が続いたら日本は長期的に持続しないし、私たちの生活に必要不可欠なものの供給も怪しくなるような後進国(衰退超先進国)化もそう遠くはないのではないかと思う。

この予感が、いまこそ、全国民が古い「常識」をさっさと脱ぎ捨て、新しい「常識」の見地に立って、この縮小均衡を反転させる経済財政政策——要するに積極財政——への転換を図るべきだと、強く思う所以である。

財政均衡主義や緊縮財政は、政府にとって全くどうでもいい収支の帳尻合わせに拘泥して、本当に重要である供給能力、その根本にある「人間」を軽視してきた。それはデフレを生み出し、すべての価値の根源である人間を、それ自体は全く価値のない「貨幣」に従属させる拝金主義的な社会を作り出してきた。対する積極財政は、この「貨幣」の本質を「無」だと、より正確に言えば「プラスとマイナスに別れたゼロ」だと喝破することで、その背後にある実物にこそ焦点を当て、そのうちでも何よりも重要なものである「人間」をこそ徹底的に重視する。

いまや誰も覚えていない(?)20世紀フランスの哲学者サルトルの言葉をもじっていえば、この意味で、「積極財政はヒューマニズムである」ということができる。ここに私たちは「緊縮財政の拝金主義とは反対に」と付け加えても良いであろう。そして、緊縮財政の拝金主義は、語の厳密な意味において、ニヒリズム(虚無主義)である。なぜかといえば、それが奉じているお金が、その本質において、「無」でしかないからである。


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