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【H】左翼リバタリアニズム—土地は公有化されるべきなのか?

私がいくらか共感している政治思想に「左翼リバタリアニズム」がある。あまり知られていないので、本記事で簡単に紹介することとしたい。ただ、知識的な部分に関しては、いにしえの記憶を頼りに書いているので、大筋は間違っていないと思うけれども、細かな点の正確性は保証しかねる。悪しからず。

1、アメリカでの「規範的政治理論」の隆盛を回顧する

1970年代以降、アメリカでは「社会はいかにあるべきか」を論ずる「規範的政治理論」と呼ばれる類の議論が盛んになった。その嚆矢となったのがロールズの『正義論』であり、この著作以降、ロールズは「リベラリズム」の代表的な論客となった。

ロールズ流のリベラリズムは、「社会で最も不遇な人々の待遇が改善されるような不平等だけが正当化される」という「格差原理」を含んでおり、「リベラリズム(=自由主義)」の名に反して、かなり「平等」を重視した考え方だった。

このように「リベラリズム」という言葉が「平等」に乗っ取られてしまう事態に直面して、「自由」を徹底的に重視するべく立ち上がったのが「リバタリアニズム(徹底的自由主義)」という思想である。これはノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』が代表的な著作とされる。

また、リベラリズムとリバタリアニズムに共通する「個人主義」や「自由な選択の強調」に反対し、「選択の前提にある価値観」と「価値観を支えるものとして共同体」を重視する「コミュニタリアニズム(共同体主義)」という思想も現れた。この代表者が日本でも「ハーバード白熱授業」で有名になったサンデルである。

この「規範的政治理論」は、フランス由来の現代思想が退潮傾向になったのと入れ替わりに、2000年代には日本でも盛んに論じられたが、最近はそれほど聞くこともない。2010年代後半以降、日本は流行思想の不在の時代に入ったと言っていいのではなかろうか。

あるいはひょっとすると、エコ・マルキシズムやMMT(現代貨幣理論)が、現代日本の流行思想なのかもしれない。クリントン大統領の選挙のキャッチコピーではないが、「問題は経済なんだよ、馬鹿者め!」ということなのだろうか。現代は再びマルクスのいう「下部構造(=経済)」が優位する時代であるようだ。

2、「リバタリアニズム」と「自己所有権テーゼ」について

さて、今回話題にしている「リバタリアニズム」は自由をとにかく重視する考え方である。その出発点にあるのが「自己所有権テーゼ」だ。

「自己所有権テーゼ」とは、まずもって「私は私の体の所有者である」ということである。そして、このテーゼはこの根源的な所有から出発して、より広範な所有権を基礎づけていく。私の体は私のものである。だから、私の体で作ったもの、私の労働生産物も私のものであると主張するのだ。

主流の「リバタリアニズム」では、このように自己所有権から労働成果物の所有権が正当化される以外では、双方の合意による所有権の移転だけが正当な所有権を基礎付けると考える。

私は私の体を所有し、私の労働の成果物を所有する。他に私が所有するのは、合意に基づいて、私が他者と交換したものだけだ、ということになる。

このことが含意するのは、徴税は基本的に不当であるということである。なぜなら、私は徴税に合意しておらず、したがって徴税は正当な交換行為ではないからだ。

こうして「リバタリアニズム」では、国家は基本的に不正であり、最小限の程度で受忍される「必要悪」である。国家が徴税をして再分配をするなどもってのほかであり、「平等」よりも「自由」が重視されることになる。

3、「左翼リバタリアニズム」の論理―土地は公有化されるべきなのか?

この「リバタリアニズム」の論理には、いろいろと批判したいところがあるけれども、今回はこの「リバタリアニズム」の分派であるところの「左翼リバタリアニズム」についてだけ扱おうと思う。それは、上記の論理のある一箇所にツッコミを入れることから生じた分派である。

それは、「私は私の体を所有している」というところから「私は私の労働成果物を所有している」へと移っていくところ、その移行を問題にするのだ。

そこで典型的に問題になるのが「土地」だ。たとえば、じゃがいものような農業生産物は、確かに一方では労働の成果であるが、他方では大地そのものの力の結果でもある。なぜ、後者の部分まで私は所有を主張できるのだろうか。

「自己所有権テーゼ」の元祖である17世紀イギリスの哲学者ロックは、土地自身の価値は、それに付け加えられた労働によって何倍にもなるのだと言った。つまり、たとえば、じゃがいもの価値のうち、土地自身の価値が占める分は極めて小さく、労働の価値の部分がとても大きい。

ロックは、この理屈でもって、じゃがいもの所有権を完全に正当化しようとした。それは、すなわち、土地の所有権まで正当化しようとしたということである。しかるに、この理屈で土地の所有権まで正当化することは、どう考えても無理筋だろう。労働の価値が土地自体の価値の何倍であろうが、土地の価値分がゼロではあり得ないのだから。

ただ、ロックの時代はアメリカが発見されて間もない牧歌的な時代だった。ヨーロッパ人の目から見ると「持ち主のいない」土地がまだたくさんあったのだ。だから、ロックは、「土地の所有権が正当化されるのは、他の人にとって、同じぐらい良い土地が、同じぐらいたくさん残っている場合に限る」という但し書きをつけることで良しとしたのである。

「左翼リバタリアニズム」とは、このような論理に反対して、土地の公有化を主張する立場である。確かに私は私の体を所有しているし、私の労働の産物も所有している。ただし、土地は私の労働の産物ではないし、有益な土地は限られている。現代についていえば、もはやとりわけ有益な土地はあらかた開発されてしまっているといっても過言ではないだろう。

とすれば、土地の所有権が、現代において、実質的に早い者勝ちの論理によって正当化され続けてしまっているのは、大いに問題ではなかろうか。土地は本来誰のものでもありえない。土地所有の望ましい形態は、このことを反映して、公有制なのではなかろうか。

もちろん、これは簡単な改革ではないが、土地所有権の大幅な改変は、歴史上、幾度も行われてきた。日本の律令制は「公地公民」を原則としたし、フランス革命は地主の土地を小作農に分配した。豊臣秀吉は太閤検地で一つの土地に重層的にまとわりついていた封建的な諸権利を整理したし、戦後の農地改革では地主の土地の強制的な買い上げと小作農への払い下げが行われた。

現代において理想的な土地制度として、まず土地は国有としたうえで、各土地のレンタル権をオークションにかけることが考えられよう。そのレンタル料を各種のベーシック・サービスや全国民向けの基礎給付(いわゆるベーシック・インカム)に充てるのだ。

この制度であれば、人々は有益な土地をレンタルして、さまざまな有益な生産活動を営むことができ、それによってお金を稼ぐこともできるが、その稼ぎはその人の労働の分に限定され、土地の寄与分は全国民に平等に分配されることになるのである。

より簡単なのは、土地への固定資産税を増やしていくことである。固定資産税を順次増税していくことにより、土地を手放すように仕向けて、最終的に国有化を目指すといったことも可能だろう。

消費税は福祉目的の税であるというようなことが言われるけれども、私はそのような国民全員向けの基本サービスを支える役割を果たすべき税があるとすれば、それは、上記のことから、まずもって土地への固定資産税であるように思われるのである。

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