【H】【翻訳】アーヴィング・フィッシャー 『100%マネーと公的債務』(5)
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政府の機能としてのマネー
マネーと銀行業の管理を政府に任せることは安全で適切なのだろうか。
この問いへの私の答えは二重である。すなわち、政府は銀行からマネーの支配権をすべて取り上げるべきだが、マネーの貸出は銀行家たちに任せておくべきである。銀行が貸出するお金をもはや作り出せないようにするなら、銀行が自由に、少なくとも今よりはずっと自由に、好きにお金を貸せるようにしてよい。
このことが実践において意味するのは、商業銀行の二つの部門への分割である。一つ目の部門は、お金の倉庫であり、当座預金部門である。もう一つの部門は、お金を貸し出す部門であり、実質的には貯蓄銀行ないし投資銀行である。ロバート・ピールとオーバーストーンは、1844年以来イングランド銀行で利用されている計画を案出したとき、このようなことを念頭に置いていたようだ。イングランド銀行は、二つの部門、お金を発行する部門と貸出をする部門に分割されている。この計画は、恐慌を減らすのに役立っているものの、銀行預金もお金として利用できるので、結果として貸出部門(「銀行部門」)もマネーないし要求払い預金という疑似マネーを発行しているという事実を見落としている。私が言いたいことは、要するに、マネーは国有化するが銀行業は国有化しないということだ。実際、銀行業を国有化せよという現在の要求は、国家がマネーのコントロールを取り戻しさえすれば、消えていくことになるだろう。さらに、私の意見では、貨幣創造と貨幣貸出との分離をひとたび実現すれば、あまりに複雑で私たちをイラつかせる銀行法のほとんど全てを廃止することができるだろう。取り付け騒ぎを起こす理由も無くなるから、預金保険も不要となるだろう。
さらにいえば、100%プランは貨幣創造と貨幣貸出との分離を完全にする唯一の方法である。私と交流がある半改宗者の一人は、100%準備ではなく80%準備を要求することを提案している。「きっと80%で十分だ」というわけだ。しかし、80%では銀行業からマネーを切り離し、政府にマネーへの完全な支配権を与え、銀行に銀行業への完全な支配権を与えるのに十分ではない。99%でさえも十分ではない。どうして、貨幣創造と貨幣貸出との分離を完全にしないのだろうか。
そのうえ、100%システムには、崩壊の可能性が格段に低いという利点もある。私たちは[ゴールドと兌換の]金証券に対する100%システムを持っていて、これは決して崩壊しなかった。兌換のためだけなら40%や80%の準備でも十分だっただろう。しかし、一度100%未満のシステムが採用されてしまうと、それをちょっとずつ減らしていこうという傾向が常に生まれてしまう。「こんなに大きな準備はいらない」というお馴染みの議論が再び聞かれることになる。準備を強化するために設立された連邦準備制度のもとで、徐々に準備が弱体化されてきたことをよく見なければならない。
主権というものの主要な特性の一つは貨幣機能である。ジョン・アダムズ大統領はあらゆる民間のマネー発行は奇怪なものであり大衆に対する詐欺であると考えていたと、フランク・グラハム教授が指摘している。
アダムズ大統領が明らかに念頭に置いていた原則は、紙幣やその補助物および少額硬貨の通貨偽造を犯罪とする原則と同じものである。何らかの民間の主体が50セント・5セント・1セント硬貨などを製造すれば、これらの硬貨はその額面価値より安い金属でできているから、製造者は不当な利益を得ることになる。このような貨幣偽造が合法化されるなら、国中に偽造硬貨が溢れて硬貨の価値は減価してしまうだろう。より一層重要なのは、民間主体が紙幣を製造して、それを市場に流通させることを防ぐことである。というのも、その場合には偽造者は国家を犠牲にして99%の利益を得ることになるだろうからだ。しかるに、銀行が銀行券を発行することによって、このことが合法化されてきたのだ。私たちがこれまで成し得たことは、部分的な準備を要求することで銀行券の発行をいくらか限定することだけである。
マネーとして流通させるために要求払い銀行券を発行することが、銀行に対して初めて許可されたとき、インフレーションと貨幣価値の減価がすぐに生じた。銀行券を無計画に発行していた州公認銀行はノラネコ銀行として知られるようになった。のちに連邦政府はそのような銀行券の全てに課税することで、それらを市場から追い出した。結果、国立銀行券だけが残って、その発行は特別の許可が必要とされ、限定されたものとなった。今日ではほぼ全ての国で、銀行券を発行するためには銀行はその権利、普通は独占権だが、それを主権国家から認めてもらっていなければならない。
しかし、多くの人が気づいていなかったのは、要求払い預金もマネーとして働くということだった。そして、民間銀行券の無計画な発行を引き起こしたのと同じ傾向によって、イングランドでもアメリカでも、小切手帳マネーの無計画な発行によって、銀行券発行の政府規制を迂回することがすぐに生じたのである。この迂回はほとんど気づかれなかった。1914年においてさえ、連邦準備法は連邦準備銀行券に厳しい規制を課すだけで、要求払い預金にはそうしなかったのである。
銀行券の準備として要求される現金は現在40%だが、預金のそれは3.5%である。しかるに、銀行券は流通している媒体[=貨幣]のなかではマイナーなものとなっており、預金こそが圧倒的にメジャーなものになっているのである。
このことの結果は、以前には人々は財産を財布マネー[=銀行券]の民間発行者に預けていたのと全く同様に、最近では小切手帳マネーの民間発行者に預けるということである。
民間の交通輸送会社にフィラデルフィアなどの都市の路面の利用を許可しているのと全く同じように、何十億ドルにものぼる私有財産が、アメリカの人々によって、このように銀行家に預けられているのである。今日では、実はこの貨幣創造特権はほとんど新しい利益をもたらさない。その果汁はすでに長らく搾り出されてしまっており、競争がついには新しい利益をほとんど不可能にしてしまっている。事実として、最終的な結果は、いわば不安定な積荷が揺れて銀行家自身が狼狽するということだった。アムステルダム銀行が信託されていたお金の最初の1%を貸し出したとき、利益を出すのには何のスキルも必要なかった。99%もの準備が残っていたからである。しかし、3.5%の準備しか残さないほどに多くが貸し出されている今日では、銀行家が失敗しないためには信じられないほどのスキルのみならず、信じられないほどの幸運が必要なのである。
憲法のまさに第一条に「議会はマネーを鋳造し、その価値を規制する権力を有する」と書かれている。これまで見てきたように、銀行が政府機能としての貨幣発行権を簒奪するのを許すことで、私たちはこの条項を疎かにしてきたのである。
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