【第一部・最終回】流れぬ彗星(12)「波の下」【歴史小説】
この小説について
この小説は、畠山次郎、という一人の若者の運命を描いています。
彼は時の最高権力者、武家管領の嫡男です。
しかし、目の前でその父親が割腹自殺する、という場面から、この小説は始まっています。
彼はその後、師匠の剣豪や、愛する女性、そして終生の宿敵である怪僧・赤沢宗益と巡り合い、絶望的な戦いを続けてゆきます。
敗れても、何度敗れても立ち上がり続けます。
全ては、野心家の魔人・細川政元により不当に貶められた主君・足利義材を救うため。
そして自分自身を含め、あるべきものをあるべき場所へ戻すためです。
次郎とともに、室町から戦国へと向かう、混迷の時代を駆け抜けていただければ幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。
世に不撓不屈の将は数あれど
足利義尹、畠山尚慶の主従に勝る者はなし
~『紀和志』林堂山樹
本編(12)
「河内屋形」の次郎は、筒井党に合力して大和へ攻め入ると、壷阪寺と高取城で越智氏を破り、ついにはこれを吉野へ没落させた。
さらに翌年にかけて河内の各地を転戦し、義豊方の残党を虱潰しに掃討していった。
畠山義豊と義英の親子を追いかけ、南山城まで駒を進めれば、いよいよ細川京兆家と直接ぶつかることになる。
「今までもずっと、自分より強大な相手としか戦ってこなかったのだ。何を恐れることがあろう」
次郎は、自らへ言い聞かせるようにつぶやいた。
若江城の館の裏手に、小さな土間を造りつけている。独りきりで奥の間にいる時は、常に全裸だった。
濡れた砥石と、木桶の中で揺れる小さな水面が目の下で光っている。師から託された太刀の刃文に、輪郭も定かでないおのれの姿がぼんやりと映っていた。
流浪の将軍足利義材から紀伊へ御内書がもたらされてから、もう三年になる。
以来、公方からの連絡はすっかり途絶えていた。近々と言われていた上洛の日取りも、未だ明らかになっていない。
雑説によれば、越中守護代神保長誠に引き留められ、何とか細川政元と和睦し、平穏裡に帰京する道を探っているともいう。
「そのようなこと、決して叶うものか」
神保の振る舞いを苦々しく感じつつ、次郎は吐き捨てた。
はっきりと断言できる。周囲がどのように取り計らおうとも、所詮は義材と政元という二人の心次第ではないか。そしてかの二人が決して相容れぬことは、とうに証し立てられているはずだ。
もし義材の出陣が間に合わなければ、おのれは独力で京兆家と戦わなければならない。
(私もまた、父と同じように死ぬのだろうか)
いつ終わるとも知れない、修羅の人生――
明応七(一四九八)年の秋である。
山城への出陣を前にして、次郎は久方ぶりに愛洲の里へ帰っていた。
河内攻略中から居所を若江城へ移していたため、もはや紀伊へ戻ることもほとんどなくなっていた。
広城に遊佐勘解由、高田土居に野辺六郎を置き、上下の守護代として一国を分掌させている。
「それ兵法とは、受者道の根源なり。頗る何ぞ勝事をや得ん。右、懸待 表裏 この二つに極まれり。併しながら、工夫を廻し分別する人、世に希れなり。ここを以て、その名を雲上に挙げること堅し」
庵の前庭を掃き清め、隻腕の師から剣の稽古を受けたあと、訓示を唱えて一礼する。
変わらぬ習慣が、初めてこの地を訪れた日まで、おのれを引き戻してくれるかのようだ。
夕刻、鯨と肩を並べ、五ヶ所の川沿いを湊の方まで歩いていった。
桃色の小袖を着、ゆるく細帯を締めた大柄な体は、最初に出会ったころと比べて、ずいぶん丸みを帯びてきたように感じられる。
「今度は山城へ討ち入るのか」
「ああ」
「京まで攻め込むのか」
「そう容易くはいくまい」
「そうか。こいつを持っていきな」
歩きながら、小ぶりな布袋を手渡してきた。じゃらじゃらとした玉粒が、たわわに実った柘榴のように張りつめている。
「修験の者たちが煎じ詰めている薬だ。吐き気、虫下し、目くらみ、何にでも効く。今さら陣中で伏せ込むようなタマでもないだろうけど」
「ありがたい」
次郎はにっこりと微笑みながら受け取り、袂へしまい込んだ。
「あんたは今まで、他の誰にもできないようなことをやってのけてきた。もしかしたら細川を滅ぼすことだって、成し遂げちまうのかもしれない」
「どうであろう。それこそ神仏のみぞ知る、だ」
「もしそうなったら、あんたは海を忘れるよ」
はっとして、思わず足を止めた。鯨も立ち止まり、横目で窺うように見つめ返してきた。
「そのような者であれば、こうして里へ帰ってくることなどあるまい」
ふう、と息をついただけで、返事はなかった。山手の方から、空々しい郭公の啼き声が落ちてくる。
「あたしはしばらく、里を離れないでいるよ」
「そうか」
これからの戦には、海賊衆は当面必要ない。それもまた事実だった。
「ここしばらく、月のものがないんだ。腹もしくしく痛むし、猪肉が食べられない。あんたの子ができたのかもしれない」
次郎は、とっさに言葉を失った。喜びというのではなかった。漠とした不安、とでも言うのか。
すぐ頭に浮かんだのは、畠山義就のことであった。桂女を母として生まれ、当家を果てしない内訌の地獄へ叩き込んだ。そのようなことが、また繰り返されるのではという恐れ。
実は元服してすぐに、次郎は京で妻を迎えていた。
細川氏の庶流の娘である。もう何年も顔さえ見ていない。むろん、子も生まれていない。だが鯨の言うように、おのれが京へ立ち戻る日が来たのならば、一体どうなるのか。
そのような思いの全てを、瞬時で見透かしたかのように、鯨はぷいと踵を返した。そうして川上の方へ黙って歩き始めた。
「どうしたのだ」
おろおろと追いすがっていく他はなかった。
「所詮あたしらと管領家様じゃ、住む世界が違うのさ」
「そのようなことはない。私はいつまでも、ただの次郎のままだ」
気丈だが寂しげな鯨の背中は、もはや立ち止まることはなかった。次郎はそれを追い抜くことも、見送ることもできず、川沿いの道をとぼとぼと従っていくしかなかった。
仲秋八月二十五日の朝。
次郎は若江城にいた。
月の初めに木津で畠山義英の手勢を破り、一旦河内へ戻って、さらに山城の北まで攻め上るべく支度を進めていた。
毎朝、水を浴びてから一人で持仏堂にこもり、八幡大菩薩をとくと拝礼する。
ちょうど辰の正刻(午前八時)の梵鐘が鳴ったころであった。
いきなり足元が激しく突き上げられたかと思うと、次いで左右の壁がぐらぐらと揺れた。
本尊の仏像は蓮華座ごと跳び上がって転がり落ちた。次郎ほど壮健な者でも両足で立っておられず、板敷きにしたたか膝を打ちつけた。
揺れがひとまず収まってから、館の外に出て物見へ上がった。すると玉串川、楠根川の水が堤を破って溢れ出していた。町場のあちこちで火の手がくすぶり、黒煙が昇り始めていた。
本丸の館へ、次第に被官たちが集まってきた。河内衆の丹下備後守が、烏帽子の紐も結ばないまま走り寄ってくる。
「御屋形様、ご無事で」
「うむ。一体何が起こった」
「未だかつてないほどの、大ないにございます」
次郎はうなずくと、すぐさま腕を振り回して指図を始めた。
「若党を出して町場の火を消し止め、検断に当たらせよ。すぐに高屋城の九郎二郎へ使いを出し、状況を伝えさせよ」
ところが、行き違いに高屋城の方から使いが届いた。
「広城の勘解由殿より、高さ五丈を超えるほどの海嘯が起こり、多くの湊が呑み込まれたらしいと。紀ノ川の流れも変わってしまったとのこと」
はっと思い当たり、次郎は思わず息を詰めた。
「今すぐ堺へ向かい、船を出す」
「何ですと」
丹下備後守は、丸い腹を突き出して反り返った。
「また津波が起こったら、海の上ではどうしようもありませぬぞ」
「私なら、どうにかしてみせる」
「一体どちらへ向かわれるのです」
「志摩の五ヶ所だ」
「なりませぬ、このような時に。今お屋形様の姿が見えなくなれば、河内の者たちはひどく動揺いたしますぞ。すぐ目の前まで追いつめた勝利を、こんなところで手放してしまわれるおつもりですか」
「丹下。直言、有り難く聞いた」
次郎はそうとだけ言い置くと、厩へ走って愛馬の鞍にまたがった。激しく波打つその尻尾を、馬廻り衆が慌てて追いかけてくる。
堺へ到着すると、混乱している問丸を脅しつけ、無理やりに船を出させた。
川のように流れの速くなった潮、軽々と船底を持ち上げる高波に逆らいながら、冷たいしぶきを浴び続け、岸壁を左手にひたすら南へ向かった。
潮岬を回り、熊野灘を北へと急いだ。志摩の入り組んだ浦々は、ことごとく海面に呑み込まれて遠く退いていた。
「鯨、どこにいる。鯨、答えてくれ」
喉を嗄らして呼びかける声も、ごうごうと唸る渦の音に掻き消されるばかりだった。
数え切れないほど訪れていたはずなのに、次郎には五ヶ所の湊がどこなのかわからなかった。川も、庵も、愛洲の里も、逆巻く波の下へ姿を消していた。
ただ、形よく尖った浅間山の峰によって、確かにそこにあったと知れるばかりであった。
~「流れぬ彗星」第一部 完
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ここまで見ていただいて、本当にありがとうございました。
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次回から、「流れぬ彗星」と対になる作品、
「天昇る火柱」を開始いたします。
よろしければ、またご覧になってください。
大純はる
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