【歴史小説】流れぬ彗星(9)「師と弟子」
この小説について
この小説は、畠山次郎、という一人の若者の運命を描いています。
彼は時の最高権力者、武家管領の嫡男です。
しかし、目の前でその父親が割腹自殺する、という場面から、この小説は始まっています。
彼はその後、師匠の剣豪や、愛する女性、そして終生の宿敵である怪僧・赤沢宗益と巡り合い、絶望的な戦いを続けてゆきます。
敗れても、何度敗れても立ち上がり続けます。
全ては、野心家の魔人・細川政元により不当に貶められた主君・足利義材を救うため。
そして自分自身を含め、あるべきものをあるべき場所へ戻すためです。
次郎とともに、室町から戦国へと向かう、混迷の時代を駆け抜けていただければ幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。
世に不撓不屈の将は数あれど
足利義尹、畠山尚慶の主従に勝る者はなし
~『紀和志』林堂山樹
本編(9)
「遊佐弥六、という男がおります」
下帯一枚きりの九郎二郎が、出し抜けにそう言った。真っ黒に日焼けし、八重歯ばかりが白い。
「知らんな」
次郎の方は、素っ裸だった。
広川の岸辺である。冷たい流れに浸かって汗を流していた。石底まで潜り、水を吹き出しながら浮き上がっては、ずいぶんと伸びた髪を手のひらで後ろへ撫でつけた。
睫毛の間に溜まった雫を透かして、真夏の日差しが瞼の裏を焼く。
「そなたと同族か」
尋ねるまでもなかった。畠山管領家の分裂とともに、被官筆頭の遊佐氏もまた二流に分かれていた。そのうち義就方へ仕えた系統であろう。
「かつては、山城国久世郡の郡代も務めたといいます」
「ほう」
「そんな男が、河内勢を率いて南山城へ討ち入り、上三郡に居座っているそうです」
上三郡とは、山城国南半の久世、綴喜、相楽の三郡のことである。大和国との国境に当たる要地だ。むろん、主君義豊の指図あってのことに違いない。
あの者の父義就は、一時は河内、大和、紀伊まで勢力を広げたが、かつては山城守護でもあった。
次郎の父政長とその国の支配をめぐって争い、細川が糸を引いた惣国一揆によって、互いに軍勢を退去させられたのというは、あまりに有名な話である。
「あやつめ、本気で父の描いた版図を取り戻すつもりか」
次郎は思わず舌打ちをし、流れから脹脛を引き抜いて岸へ上がった。乾いた石川原へ、しとどに散った水滴が黒いあとを残していった。
木の俣に掛けていた小袖を取りあげ、さっと素肌に羽織ると、そのまま馬の鞍壺にまたがった。
目の先の向こう岸に煮えるような陽射しが溜まり、ゆらゆらと陽炎が立っている。
「しかし、そのような企てが通るかはまた別の話だ。ハッ!」
馬の腹を蹴ると、たちまち一陣の風になって川沿いを駆け抜けた。そのあとを、九郎二郎の駒が影のように追いすがってきた。
果たして、弥六の動きは山城国の領有を狙う細川氏の怒りを買い、京兆家内衆の軍勢による追討を受けた。
わずか三ヶ月で上三郡から掃滅され、山中へ逃れて切腹したという。
一連の騒動は、弥六ひとりの野心から生じた暴走とされ、義豊と京兆家の手切れは免れた。
体よく尻尾切りをされた格好である。
細川勢の大将は、赤沢沢蔵軒宗益という無名の男であった。
その軍勢は、信じがたいほど勇猛で残虐だったという。弥六の一味を一人残らず殺害したのみならず、その隠れ場となった村々を丸焼きにし、百姓たちの骸を串刺しにして谷間に晒したらしい。
「赤沢、という名字はやや気にかかるな」
愛洲移香斎は、五ヶ所の庵で、かすかな日差しに太刀の刃文をかざしながらつぶやいた。
会う度に、まるで古枝が枯れていくようだった。肌は水気を失い、細かな皺でひび割れている。
姪の鯨は、甲斐甲斐しく炊事に立っていた。ささやかな土間の竈の前にいる。よく肥えた川魚を捌き、味噌で煮付けて、昔のように三人分の膳をこしらえていた。
「次郎は、濃いめの味付けが好きだったな」
かわらけで汁をすくって味見しながら、こちらを振り返った。
広城では女主人のようなものだから、手ずから膳部を支度するようなことはない。それだけにむしろ気が浮き立ち、華やいで見える。
「ああ」
「叔父貴は、しばらく塩気を控えろ。血の流れに悪いそうだ」
もちろん丈は高いが、袷の小袖に包まれた背姿は、出会ったころと比べるとずいぶん丸みを帯びている。
師と対座する次郎は、侍烏帽子に大紋姿だった。畠山氏の村濃紋は、直違に小さな斑模様である。片肘張っている気もしたが、師への敬意の表し方を他に知らなかった。
「少し庭を歩くか」
刀を置き、腰を上げた移香斎に弟子は従った。
気を利かせたものか、鯨は竈の火から横目を移したばかりで、二人についてこようとはしなかった。
庵の前庭では、紅や黄色の落ち葉がきれいに片寄せられていた。今でも次郎は五ヶ所へ赴くと、剣の稽古の前に庭を掃き清めるという習慣を絶やしていない。
「次郎よ」
「はっ」
「そこもとは、唐船というものを知っておるか」
唐船。
明国へ渡る船のことか。しかし、ずいぶん唐突な話だった。
「耳にしたことはございます。しかし、将軍家や大寺社、あるいは細川や大内のやっていること、ぐらいにしか思っておらず」
「十年に一度の遣明船を送るというのは、国家の一大事なのだ」
師はぽつぽつと語り始めた。
「かつては愛洲の衆も、それに合力するよう将軍家から命じられていた。わしもまた、文明十六年の船に同乗し、明国へ渡ったことがある」
初めて聞かされる話に、次郎は耳をそばだてた。
「寧波で船を降り、はるか北方の順天府までたどり着いた時、一つの騒動が持ち上がった。
倭寇を目の敵にする高麗人に、船頭でもあった愛洲の者が殺害されたのだ。下手人は捕らえられたが、あくまで処刑するよう求めるわしに対し、真っ向から異を唱えてくる者がいた。加藤三郎、と名乗る信州の牢人であった」
流れの浅くなった川沿いの道を、小さな歩幅で歩いていった。草履の足裏が、小さな梢をぽきぽきと踏み折っていた。
「だが一見して、ただの牢人でないことは明らかであった。あの異様な風体。……七尺にも届かんばかりの背丈に、鷹のように鋭い眼光を宿していた。
加藤は、この者も倭寇によって家族を殺されたのだ、あっぱれ仇討ちを果たしたものと、なぜ考えてやれぬのか、などと申してきた」
移香斎はふいに立ち止まり、左の拳をぎりぎりと握り固めていた。
「わしも血気盛んで、到底引き下がれなかった。そうして明国の都で、日本人同士が果たし合いを行うことになったのだ」
また急に歩き始めた師が、足元の石につまずいてよろめいた。弟子は思わず手を差し延べて支えた。その右の袖には、まるで手応えがなかった。懐手もしていないのに、袂にかけてぶらぶらと垂れているだけなのだ。
そう、初めて出会った時から、師には右腕がない。
遠い異国の地で、剣豪たる移香斎の利き手を奪った者。
それが加藤三郎であった。
「あの者の剣は、兵法などとは呼べぬ。韃靼ぶりの二刀流。……日本刀の流水の如き美しさとは似ても似つかぬ。邪道の剣である」
「仰せのとおりです」
次郎は師をなだめるように言葉をかけた。
「あとで耳にしたところによると、あれはやはり牢人などではなく、赤沢朝経という名で信州の城主だったという。異能を見込まれ、京兆家の被官となる代わりに、遣明船へ乗り込むことを許されたらしい」
その加藤三郎が、赤沢沢蔵軒なる猛将本人だというのか。
「次郎よ。もし向後、あの者と戦場で相まみえることがあったなら、……その時は、わかっておろうな」
間近で見開かれた移香斎の両目は、常ならず血走っていた。次郎は何度もうなずき返し、口の端に笑みを浮かべてみせた。
「むろんのことです。師のご恩に報いるため、必ずやその者の命を奪ってみせましょう」
赤沢宗益。
「その名を聞いたことがあるか」
「はて」
山口城の主殿で、九郎二郎は首をひねった。広城の館と比べれば砦のようなものだが、名とは裏腹に広さばかりはある。
「赤沢という名字の者たちは、細川の被官に多少はいたようですが。あるいはその係累を頼って、上洛してきたものでしょうか」
「では少し調べさせてみましょう」
城代の遊佐勘解由が話を引き取った。大きな口を髭で縁取っている、初老の男だった。九郎二郎との間柄は、ずいぶん年の離れた従兄弟に当たるという。
「そのようなこと、できるのか」
「わずかながら、細川家中へ人を入れております。京兆家の動向をつかむために」
「なるほど、ならばよろしく頼む」
半月ほどして、勘解由が報告のためにわざわざ広城までやってきた。
次郎は書院にいて、大柄な鯨を横抱きにしながら書見していたが、それを奥へ下がらせて会所で引見した。
「元はやはり、信濃国の塩崎という城の主であったようですな。小笠原の一族です」
「ほう」
小笠原氏は甲斐源氏の末流で、代々信濃守護を務めている。しかしながら近年は一族間での内訌が激化し、三流に分かれて争うなど正体もない。
「それがなぜ、政元めの内衆になりおおせている」
「鷹ですな」
「鷹」
「鷹狩りです。どうやら小笠原家相伝の武家故実を身につけており、それを右京兆へ披露して、気に入られたようですな」
聞けば、赤沢宗益は在地で出家し、嫡子へ城を譲ったあと、諸国を流れ歩いていたという。ずいぶんな変わり者である。
やがて近江征伐中の細川の陣へふらりと現れ、弓と鷹狩の技量を見せつけた。政元は大いに気に入り、その場で将軍家の武芸指南役に推挙したという。
「師の話しぶりとは、ずいぶん違うようだが」
唐船へ乗り込むうんぬんの話は、それ以前のことなのだろうか。明国の都で、師との果たし合いを制したというのも。
「王道も邪道も極め、三国の武芸百般を身につけている、ということなのか」
そうでもなければ、愛洲移香斎の片腕を切り落とすことなど到底できはすまい、とも思われた。
「しかし、いくら強くとも、邪道に堕した者はあくまで邪道なのだ」
次郎の激しい口調に、勘解由は畏まってその場で平伏した。
「宗益なる者は、恐らく戦を殺生の遊び場と考えている。そのような下賤の手合いを滅するために、我らの如き武士はいるのだ」
~(10)へ続く