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【読書】狭き門
こんにちは!エルザスです。
今回は初めてのマンガ以外の読書感想文です。
アンドレ・ジッドの『狭き門』
をとりあげます。
なぜこの本を読んだのか
けっこう前から積ん読になっていたこの本。
最近になってなんとなく「読もうかな〜」と思い立ち、手もとに置いてありました。
すると、私が敬愛するnoterのミック@アート好きのノートさんが、ちょうどこの本についての記事を書いてくださったのです。
これだけでもめちゃくちゃタイムリーなのですが、それだけではありません。
実はミックさんのこの記事の直前に、私は↓の記事を投稿していました。
生成AIが発達した現代に、なぜ人間である「私が」書くのか。それを模索している真っ最中だったのです。
そんな中で投稿されたミックさんの記事。
その冒頭部分を引用させていただきます。
なぜ私たちは書くのか。勿論、人によって様々な理由があります。
しかし、書くという行為には、根本的に「信仰告白」のようなところがあって、自分が生きて信じているものを、何かの形にしたいという欲望が込められているのは、間違いありません。
フランスの小説家、アンドレ・ジッドの小説『狭き門』は、そうした信仰告白を、捻れた形で凝縮して小説にした名作であり、書かれている事柄は古くても、今とてもアクチュアルに読める作品に思えます。
あまりにも巡り合わせが良すぎる!
こりゃもう読むしかないでしょ!
どんな本?
『狭き門』は、多層的なレイヤー構造を持った作品です。
第1層
表面的には、愛欲に打ち勝ち、神に近づくための「美徳」を貫いたヒロインのアリサを称賛する内容にみえました。
実際、本文中には、欲望に流されず高みを目指して自分を鍛え続ける姿(これが「美徳」です)を気高く表現した文章がいくつも散りばめられてます。
・未来の幸福を求めるより、未来の幸福に向かうための絶えまない努力を欲していたので、美徳をすでに幸福だと思い込んでいた。
・どんなに幸せなことでも、わたしは進歩のない状態を望まない。天上的な喜びとは神と一つになることではなく、絶えず、果てしなく、神に近づいていくことの中にあると思う……
レイヤーの第1層目は、「美徳の讃美」と言ってもよいでしょう。
第2層
目的に近づくために努力をし続けることこそ素晴らしい、という「美徳」の概念。
その崇高さに惹かれつつ、一方で私は、「なぜ彼女はそうまでして愛欲を否定したのだろう?」と疑問を抱かざるを得ませんでした。
というのも、真に愛し合っている2人が結ばれることを、神が咎めるとは思えないからです。この世界に愛が増える行為を、神が許さないことがあるでしょうか?
実際、光文社古典新訳文庫の解説によると、ジッドの友人のポール・クローデルは次のようにアリサの信仰を批判したそうです。
神の恩恵や死後の救済を期待しないアリサの一見禁欲的な信仰は、むしろ神に対する冒涜であり、これでは神が残忍な無言の拷問者になってしまう
つまりこの作品には、信仰を貫く「美徳」という行為が、崇高どころかむしろ愚行であることを読者に感じさせる仕掛けが施されているのです。
レイヤーの第2層目は「美徳への批判」です。
第3層
ヒロインのアリサと同様に、主人公のジェロームもまた「美徳」の価値を理解している人間ではあります。しかし、彼はアリサよりずっと自分の愛の感情に素直だと思われます。
愛の喜びにあふれたジェロームの気持ちを表す文章は、とりわけ美しいものが多いのです。
・その年の夏は光に満ちていた。あらゆるものに紺碧の空の色が染み入るようだった。僕たちの熱情が苦しみと死にうち勝ち、目の前から暗い影は退いていった。
毎朝僕は喜びで目が覚めた。夜が明けるとすぐに起き上がり、日の光を見たくて駆け出していった……
・魂のすべてで君を愛しているとき、どうしたら知性と心情を区別することができるというのか。
愛によって沸き立つ気持ちに素直に従って生きていくことこそ、幸福に至る道であり、しかも神の望むところでもあるような気さえします。
世界をこれほど美しいものに見せてくれるのが愛なのですから。
レイヤーの第3層は、「美徳が善であるか悪であるかに関わらず、愛は素晴らしいもの」だという主張です。
エルザスが思ったこと
信仰と道徳に基づく「美徳」か、
愛欲に基づく現世的な「幸福」か、
人間が目指すべき姿はどちらか。
その解釈は読者に委ねられているように感じます。
私としては、「美徳を貫いた人だけがくぐれる『狭き門』は、現代人には狭すぎる」と感じました。
アリサのように信仰心の強い人をはじめ、一部のモラリストは、自らが幸せになることを恐れているかのようです。
現代でもそういう人がいますが、私は「他人に過大な迷惑をかけないなら、遠慮なく幸せになりなさい」という発想です。
なにしろ、同僚に仕事のしわ寄せを与えてでも、1年間の育休をとって自分(と家族)の幸福を追い求めたくらいですから。
そんな私にとっては、やっぱりアリサの選択は理解できません。何が自分の幸福であるかを自分の頭で考えようとせず、神に委ねてしまっているように感じました。要するに、自由意志がないように感じたのです。
ただし、「美徳」の概念そのものに惹かれないわけではありません。
『狭き門』は聖書の引用から始まります。
狭き門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い
しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない
『狭き門』のこの部分だけは、中学生のころに読んだことがありました。
その時どれだけ感銘を受けたか、今となっては言い表しようがありません。志に燃える若かりし頃の私は、「自分こそは、命に通じる狭き門を見いだす数少ない者になろう!」と思ったものでした。
何かを目指して自分を高め続けることは、やはり崇高なことであり、素晴らしいものなのです。
幸福になることと、自分を高め続けること。これらを両立させるにはどうすれば良いのか。
結局、ジッドが読者に植え付けたかったのはこのテーゼなのではないでしょうか。
ではまた!