
【雑感】なぜ「私が」書くのか②
こんにちは!エルザスです。
生成AIが普及している現代に、なぜ「人間である私が」ものを書くのか。
いまだに模索し続けています。
生成AIとの付き合い方に関する過去の記事はこちらです↓
これまでの記事では、もっぱら書き手側の視点で「人間が」書く意味を考えてきました。
一方、読み手側からの視点で考えたらどうでしょうか?
『倫理学入門』 を読んで気づいたこと
なぜそんなことを思ったかというと、
『倫理学入門 アリストテレスから生殖技術、AIまで』という本を読んだからです。
この本では、AIが様々な技術的制約を克服し、人間と同等のモノやサービスを提供できるようになった時を想定して、こう書いています。
究極的に問われているのは、
私たちはモノやサービスそのものを手に入れたいだけなのか
それともそこに付随する人間同士の何らかの交渉にも、意味や価値を見出しているのか
ということである。
これは非常にわかりやすい視点です。
私は仕事の昼休みにいつもスタバに行くのですが、アプリからモバイルオーダーができるにもかかわらず、店内で飲食する時は必ずレジに並びます。顔見知りの店員さんとほんの一言二言会話をかわすのが楽しいからです。
まさに、コーヒーというモノに「付随する人間同士の交渉にも、意味や価値をみいだしている」というわけです。
一方、仕事が忙しくテイクアウトをする際は、モバイルオーダーを積極的に活用しています。
この時私は、店員さんとのコミュニケーションではなく単にコーヒーというモノを求めているのでしょう。
この視点を読み物に当てはめるとどうなるでしょうか?
AIが書いたものを読みたいか
「読む」というのは極論すると「情報を取りにいく」行為です。
したがって、AI時代の「読む」行為において問われているのは、「私たちは情報そのものを手に入れたいだけなのか、それともそこに付随する人間同士の何らかの交渉にも、意味や価値を見出しているのか」ということです。
私がスタバで対面オーダーもモバイルオーダーも両方使っているように、読む人も、書き手との何らかの交渉を求めているときもあれば、情報だけを求めているときもあるでしょう。
AI時代においては、前者に「人間が」書く意義が顕著ですね。後者なら、AIによる要約記事で充分なことは多いですから。
(もちろん、AIによる要約記事が万能なわけではありません。専門家からすると「ポイントはそこじゃないんだけどなぁ…」と思うような要約になっていたり、そもそも誤った情報が織り込まれていたりしますので)
私がnoteで記事を読む時を考えると、圧倒的に書き手との「何らかの交渉を求めている」場合が多いです。
情報収集ツールとしてはnote以外のメディアが既にあるから、というのもありますが、私がnoteの記事に求めているのは主に「生身の書き手が感じたことや想像したこと」です。
さらに言えば、生成AIが書いた最大公約数的な意見や過去の作品の模倣ではないです。
読書感想文で考えてみましょう。
私がnoteの読書感想文記事で読みたいのは、記事の書き手によるその本の要約ではなく、記事の書き手がその本を読んで感じたことです。
もちろん、本の要約の仕方には書き手の個性が現れるので、それはそれで面白いし、感想に加えて補足的な情報(本の作者の生い立ちなど)を解説してくれる記事も素晴らしいです。
でもやっぱり、一番読みたいのは記事の書き手の感想なんですよね。
まとめ
だいぶ話が広がってしまいましたが、読み手の立場になって考えると、人間である「私が」書く意味がよりクリアになった気がします。
仮に私が「今後の記事はすべて生成AIを利用したものになります」と宣言した場合、それ以降の記事のビューやスキの数がどれぐらい減るのか、大変興味があるところです。
その減った分こそが、「人間であるエルザスが」記事を書くことを期待してくださっていた読者の皆様ということになるからです。それこそが、「人間であるエルザスが」記事を書く意味そのものと言えるでしょう。
(ビューやスキがまったく減らなかったり、逆に増えたりしたらショックで寝込んじゃうので、今後もそんなことはしません)
すべての記事を生成AIにしたら離れてくれる読者の皆様がいると信じて、これからも細々と記事を書いていきたいと思います。
ではまた!