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『「わざ」から知る(コレクション認知科学)』生田久美子著:伝統芸能から考える、身体や生活の中での学びと教育
熟練の職人の動きを機械に覚えさせて物を作る場合、人と機械が作る物は同じになるのか?
微妙な差は?「精神」は?
→p. 195
p. 15
華道の根本の形式は「天」「地」「人」。
pp. 16-17
伝統芸能の習得、段階、目的は、学校教育のそれとは異なる。
行っていること自体に段階が設定されているのではなく、学ぶ者がそれぞれ目的を見いだして行っている。
p. 17
わざを伝授する者が評価を下すが、その理由は示されない。
→現代的文脈では、ハラスメントにつながり得る。伝統芸能の師匠と弟子のように信頼関係がない状況においては(?)。
p. 79では相撲界について述べられており、この本の出版は1987年なので、まだ相撲界の闇が暴かれていなかったかもしれないが、相撲界でのパワハラ、暴力は問題になっている。上に立つ者がまともでなければ、不当な暴力がはびこり得る。
pp. 27-28
威光模倣
模倣者が、模倣しているものを自ら「善いもの」とみなして模倣する。
その判断は、社会・文化的な状況の中で形成される。
書道も、ひたすらまねて書いているうちに、流れや呼吸が、身体に染み込んでいく感覚があった。
赤で直されるが、細かく説明されることは少なく、その赤と自分の墨の線を見比べて、どこが悪かったのかを考え、自ら修正していく。
語学も、少なくとも中級になるまでは、理屈をこねずに、まねて反復するのがよい。
p. 93
「わざ」言語
p. 97
声楽で、身体の感覚を伝える言葉。
pp. 98-99
比喩で伝えられると、なぜその比喩なのか、と、言われた方がいろいろと考える。類似性を探る。
pp. 113-114
教える立場の者が、知識について問うことに立ち戻る必要がある。
p. 117-
学習者がよいと思って模倣する。
↑
近代の学校教育は、教師は師匠ではなく(自分ではできない)、教え方を知っている(はずの者)として、「大量に短期間で効率的に」教えることを目指しているからなあ。
せめて教師は、学ぶ内容の「よさ」(なのか何なのか)を学習者が自ら発見していく手助けをする努力をするとか。
p. 123-
当初の学習の目標からはみ出る、余剰な学びが重要な学びとなる。
p. 128-
あらかじめ規定された教科の枠組みの中で学ぶのではなく、学習者が日常の中から自ら学ぶことを探っていくような方法。
↑
シュタイナー教育っぽい?
pp. 132-133
引用:
「ある事柄を理解する」こととは、人間がその事柄を、自らの生活のなかで、さらには世界全体のなかで実感し納得すること、しかもその生活のなかでの他の事柄との意味連関を果てしなく拡げていく活動に他ならなくなる。
p. 134-
↑
単に言葉として覚えるのではなく、身体性や物質性を伴って覚える、身体に入れる、一体化させる、というのは、何かを思い出すとき、その言葉を発した人の声やそのときの様子、本のどこにそれが書いてあったか、などと一緒に記憶されていてよみがえってくることとも関係があるのかも?
pp. 140-141
やはりシュタイナーっぽい?
pp. 154-155
師と弟子は対等。互いに学び、共に価値を作り出していく。
p. 155
文字を教える例。
↑
子どもを読書好きにするのにも、好奇心旺盛な学び好きにするのにも、強制するのではなく、大人が自分でそれを自ら進んで行っている姿を見せるに限る。
pp. 156-157
人でも物でも自然でも、声を聞き、応え、対話する。