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雑感記録(237)

【年度末は容赦なくやって来る】


もうあとほんの少しで2023年度が終了する。4月がすぐそばまで来てしまっている。何だか時間の流れは速いものだなと哀しくなりつつも、「早く桜が咲かないかな」と期待に胸を躍らせている自分も確かに存在している訳だ。自分自身という小さな世界の中でもこうして矛盾を孕んだ感情を持っている。世の中に矛盾が蔓延り、やいのやいの言う人も居る訳だが、そもそも人間という存在自体が自分自身の中に常に矛盾を抱えている生き物なのだということを余りにも捨象しているような気がする。まあ、そんな話はどうでもいい。

それで、僕の職場も年末で忙しい。僕も珍しく(!?)忙しく、今日は1日電話とメール対応に追われていた。人間、適度なストレスがあった方が良いなと思う。今はストレス社会と言われている訳で、僕らが見知らぬところでそういった問題は肥大化している。例えば「ハラスメント」問題なんかが顕著な例ではないだろうか。「アルハラ」「スメハラ」「セクハラ」「パワハラ」…挙げればキリがない訳だ。それに新しい「ハラスメント」も日々誕生している。何だか複雑な世の中になったな…というよりも細分化した世の中になったものだなと思った。

細かさというのは時に人を破滅に追いやる。何となくだけれどもそんな気がする。例えば、僕の好きな清原啓子っていう銅版画家が居る。彼女の作品を1度でも見たことがある人が居れば分かるかもしれないが、物凄く細かい線で描かれている。それを銅板に傷をつけるという方法でやっている訳だ。加えて、銅板に彫る前に紙に下書きをする。その下書きも細かい。見ているこちら側ですら気が狂いそうな程に細かい。こんな細かい作品を毎度毎度製作していたら気が狂う。

結局、彼女は若くして自殺してしまう。その理由をこういったことに求めるのは僕が彼女の関係者ではなく、ただの傍観者で何の責任も無いから書けるのである。「きっと」とか「おそらく」とか僕らは遺された作品から推測することしか出来ない。そもそも推測する必要があるのかどうかは別にしてもだ。

それでアイドルで言えば、岡田有希子の自殺だってそうだ。僕はタイムリーで生きていた訳ではなく、恥ずかしながらウィキペディアの知識だから意味ないのだが、18歳までにあれ程の業績がある訳で。それを考慮しても18歳にしてはかなりハードなんだなとも思う訳だ。心の強さというか容器みたいなものの容量は人によって異なるのだから、どれがキッカケで、あるいは蓄積でそういうことに至ってしまったかは本人以外知りようが無い訳だ。これも清原啓子と同様に、遺された作品から推測するしかない。

そういえば、いきなり岡田有希子の話を書いた訳だが、これには理由がある。最近、大塚英志の『「おたく」の精神史 1980年代論』を読んでいるということが大きな原因である。これが結構面白い。サブカルをあまり知らない僕にとっては勉強になる1冊である。それにどこかエッセー風な社会学の様相を呈していてそこが何より僕の好みである。それで、岡田有希子が自殺した後に相次いで若者が27名も後追い自殺したということが書かれていた。

まあ、「ウェルテル効果」っていう言葉で済ませてしまえばそれまでなんだろうけれども、何だか「ウェルテル効果」っていうたった数文字の言葉でその問題を語れてしまうということに僕はどこか腹立たしかった。勿論、彼女はどうして自殺したのかとか、後追い自殺を何故するに至ったのかっていうことを考えることも重要だろう。だが、そんなもの「死人に口なし」である。僕等がいくら言葉を弄しても、結局その言葉には敵わない。

別に僕の職場ではハラスメントなんていうのは見当たらない。というよりも、上の人が下の人の「ハラスメントです」という指摘に怯えて堂々と出来ないという部分もあるだろう。人によって感じ方や受け取り方は様々である。それに今は「多様性」とか何とか言っちゃって、「自分がされて嫌なことは他人にするな」というのが定説みたいな所があったけれども、もしかしたらそれは相手にとってはしてほしい事なのかもしれない。ということもある訳だ。

複雑な世の中になったなとまだまだ若者の僕が思うのだから、年齢を重ねた人たちはもっと強烈に思っていることだろう。僕はわりと「ああでもない。こうでもない。」と1人勝手に捏ね繰り回すのがある意味で趣味みたいな所がある訳で、逆に何も出来ない。だから、「空気が読めない人」という存在が時たま羨ましくなる。多分だけれども「空気が読めない人」にも2種類存在して、敢えて想像力をゼロにしている人と、本当に想像力のない人の2極だと思っている。異論は認める。

僕がなりたいのは当然だが、敢えて想像力をゼロにしている人だ。これはある意味で想像力の柔軟性とでも言えばいいのか、想像力を変幻自在に操れるという所が相当な教養を持った大きな人間である。むしろ、「ここで想像力をゼロにしなければならない」と想像している時点で想像力は多分にある訳だ。これは僕の持論。学校の勉強でも何でも良いのだけれども、そもそも頭が良い人が100点を取るのは簡単だ。頑張ればいい。ちょっと。だけれども0点を取るっていうのは意外と難しいものだと思う。そこには様々な想像力が働くからだ。「ここで俺は何も書かなかったら今後どうなる」とか「大事な一生が掛かったところで何も書かないのは」とか…。それを全て排除するなど土台不可能な話である。

これを受け入れたうえで、想像力をゼロ状態に持っていけるのは天才だと思う。僕には難しい。ただ1つ分かっているのは「寛容さ」ということだと思う。これは何となくだけれども。前に記録で散々「感謝がどうのこうの」って色々と書いていたと思うんだけれども、畢竟するにああいう心持、何て表現するのがしっくりくるのか自分でも分かっていないのだが…。器の広さ。度量の広さ。そういったものがあれば想像力も一気に広がるんじゃないかなと僕には思える。

文学や哲学を身に付けることで想像力を広げることだっていいと思う。だが根本にあるのは何となくだけれども「優しさ」みたいなものなんだと思う。冷静に考えて、文学なんてそもそも無くたっていい訳だ。別に他人の人生なんてどうだっていいっちゃどうだっていい。誰が何した。あっそ。でもその人は実在しないんでしょ。まあ、こういう感覚になる人だって居る。でも、そもそも何で「文学」が必要とされているかってことを想像してみる訳だ。これは個人的な問題として捉えるのではなくて、世界的な周辺的な問題として捉えることが肝心で、個人に帰結するのは死ぬ時ぐらいで十分だ。

結局、そこに存在するのは僕は「優しさ」だと思うんだ。「文学」をやって何が学べるかって言うと僕はね、個人的にだけれども「教養」とか「知識」とかそういった紋切型のものじゃなくて「優しさの塊」みたいなもんだと思う。それが「文学」や「哲学」の魅力だと思う。だってさ、哲学なんて「人間の存在とは?」とか「生きるということとは?」とか「権力への意思とは?」って出発点は個人かもしれないけれども、俯瞰してみればさ人類のこと考えてくれている訳じゃない。それってある意味で「優しさ」じゃない?

本来ならば、別に考えなくたっていい。だけれども彼らは「世界は」とか「人類は」とか「生物は」とかっていう主語で語ってくれる。自分のことなのに。それで思うのだけれども、やはり自分を考えるということは世界を考えるということに等しいのではないかと思うのである。やはり自分という世界があってこそ他の世界を看取できる訳であって、自分自身に世界がない人間など存在しないのではないかと思われる。

それで、僕は方々で結構言っているんだけれども、「人間って生きてるだけで立派なんだ」って。結局政治に参画するにしてもそうだし、社会を変えたいというのも結局のところまず以て自分自身の世界を豊かにしなければ考えられるものではない。それこそ自分自身に対する「優しさ」なのではないか。これは「甘やかす」ということではなくて、自分が行きやすい生活を整えるということなのではないだろうかと思うのである。

だから、昨今の政治家なりテレビに立っている人たちを僕が信用できないのはそれだ。つまり、出発地点は「生活」である。それもあまりにも個人的な生活だ。それをしっかりと「優しさ」に満ちた世界にして豊かさを追求することで初めて政治や社会ということについて考えられるのではないだろうかとも思う訳だ。ただ、必要に迫られてそういうことに興味関心を抱かざるを得ないということも十分にあり得る。

しばしば自分を犠牲にしてまで誰かに尽くそうという人たちがいる。僕はそんなことは土台無理ではないかと考えている。自分自身の生活が豊かであってこそ初めて、相手に「優しさ」を与えることが出来るのではないか。ここで注意をしておきたいが、僕は先程から「豊かさ」という言葉を連発しているが、それは何も経済的豊かさを指す訳ではない。それは精神的な豊かさ。つまりは心の器を、受け皿を大きくすること。これが今の社会に求められる真の教養というものではないかと最近の僕は考えている。

「優しさ」というのは誰かの為にということではない。一般的に勘違いされていると僕は思うのである。「優しさ」というのは「受け入れる」ということではない。僕はそもそも「誰か」の中に自分自身という存在が放逐されているという事態に危惧を抱く。だから僕が常々「本を読め」「哲学書を読め」というのはこういう理由からである。まず以て自分自身が豊かになること。精神的に豊かになること。これが肝要だと思う。


文学や哲学を学ぶことが「教養」だの「知識」だのとそういったものと繋がるそれ以前の問題として、ある種の「優しさ」としてそこに在ることを忘れてはいけない。僕は何度文学や哲学に救われてきたか分からない。だからこそ、こうしてnoteに延々と文学や哲学の重要性ばかり稚拙な文章で綴っているのかもしれない。

大切なことなのでもう1度言おう。

文学や哲学は僕等に対する「優しさ」なのである。

以上。

よしなに。

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