
雑感記録(339)
【夜の戯言集8】
午睡をし過ぎるとどうも目が覚めてしまう夜。窓から雨の降る音が聞こえ始めてくる。天気予報では「雨」の文字など見当たらないのに、突如として降って来る。夏。しかし、暦は確実に秋に向かっている。「8月24日」という数字で季節感を感じる。不思議なことだ。昔から「暦」というものはあったのだろうが、そこにはもっと季節に沿った、日本の気候に沿ったものであったのではないかと思いを馳せる。
ゲリラ豪雨という言葉はいつから出来たのだろうか。この言葉を見ると僕は小学校6年生の冬、図工の時間を思い出さずにはいられない。確か木版画の授業だったと思う。どういう訳でその作品を制作したのか今では全く記憶にない訳だが、僕はゲリラ豪雨を題材にして作品を制作した。俵屋宗達が描いた『風神雷神図屏風』から雷神を模写し、下に都市を描いて雨を降らせるという短絡的な画を制作した。
しかし、冬という季節にゲリラ豪雨は降らない。大概ゲリラ豪雨は夏、気温の上昇によって発生するものである。冬にゲリラ豪雨などが発生したならば、それはそれで恐ろしく地球温暖化が進みに進み、地球そのものがどうかしてしまっている世界である筈だ。正しく「世も末」である。「将来的に冬にもゲリラ豪雨が起きてしまう可能性もある。地球温暖化に歯止めをかけよう。」というような高尚なメッセージ性を込めた記憶など小学6年生の僕には到底出来た芸当では無いはずだ。
僕は東京に出てきてからというもの、季節感を大切にしたいと日々考えてしまう。東京の都心に毎日勤めに行き、周りを見渡せば高層ビルだらけである。周囲を見渡しても山や川が自然そのままで存在するということは基本的にない。どこか整備された自然がちょこんとあるだけだ。大きな歩道に点在する整備された木。近くには小石川後楽園が在るが、周りを見れば高層ビル群に囲まれている。
これらは自然と共存しているのではなく、人工的に創り出した自然である。僕が好きな散歩コースに神田川沿いの小路と雑司ヶ谷周辺がある。あそこが好きなのは、自然と上手く共存しようとする人間の営為が垣間見えるからなのかもしれない。人工的に「創っとけばいいだろう」という感じではなく、そこに元々あった自然と上手く共存していた、連綿とした歴史を引継ぎながら現在に至る。そんな印象を僕は持っている。
僕はここで「歴史」という大仰な言葉を使ってしまった訳だが、あらゆる物には「時間の蓄積」というものが在る筈なのだ。例えば「年季が入っている」という言葉がある訳だが、僕はこの言葉が好きである。皮製品を例にして考えてみると分かりやすいかもしれない。僕は仕事で革靴を履くので革靴の手入れをしている。革靴は掃いているうちに段々と柔らかくなって自分の足に馴染む。色も少し変化してきたりする。
そこに僕等が皮を磨いたり、靴紐を変えてみたりと様々な手入れを施し続けることで自然の変化と共に移り変わって行く。季節感とは言い難いものの、そのものが持っている時間の蓄積を大切にしながら更新していく。そうして「年季が入って」重厚感を増していくのである。変わらない何かと変化が両立している。僕は最近そこにこそ何か生きるヒントがあるのではないかと考え始めている。
僕が肝心だなと思うのは「手入れ」の部分である。この「手入れ」の部分をどうするかによって変化そのものの変化していく。先の革製品での場合で引き続き考えてみよう。革製品は正直言うと、ド素人からすると手入れが面倒である。様々なグッズを揃える所から始めて準備を整える。そうしてクリームを使ったり、クロスを使ったり、ブラシを使ったりして磨き上げる。ただ、無頓着(というと語弊がある訳だが、あまり拘りが無い人?という表現が正しいのか…?)な人の場合だと、所謂「ツヤ出しスポンジ」なるものでササッと済ませることもある。ちなみに、最近の僕はこれで済ませてしまっている。
だが、ツヤ出しスポンジにも限界はある。当然だ。だって、汚れをそれで落せている訳ではないのだから。皮に対して負担をかけているはずだ。言ってしまえば「見せかけ」の手入れであることは言うまでもない。だから僕の革靴はせいぜい1年半ぐらいで限界が来る。これは本当に良くないことである。まだまだ手入れをしっかりすれば使える、僕の様々な時間の蓄積がある革靴を僕は早々に手放して次の革靴へと移行する。皮の変化を見届けるまでもなく新しい皮を求めていることに他ならない。
これを人間関係に当てはめてみると良いのかもしれない。友人関係、恋人関係、家族関係。そういったものと似ているのかもしれない。要は相手との向き合い方の如何が「手入れ」ではないだろうか。長い間、一緒に過ごしていく中で当然に自分自身も相手も周囲の環境が変化する訳だ。個人単位で考えれば様々な環境が変化していくものである。そうすると、今までと同じ関係性で居られなくなるのは至極当然である。そこで必要なのは、お互いにお互いの変化に適応すること(=「手入れ」)である。
誰だって自分の軸を簡単に変えられるものではない。譲れない部分だって当然ある筈だ。そしてお互いにその中で、上手く折り合いをつけていこうとする。お互いが変化している最中の部分に対してどう接して行くか。それこそが肝心だと思われて仕方がない。そこで僕のように「まあ、取り急ぎのスポンジで磨けばいいや」となってしまえば、結局その関係性はどこかで綻びが生じて終わってしまう。お互いが積み重ねてきた時間の蓄積は消え去ってしまう。年季どころの話ではない。
そこで大事に磨き上げることが大切な訳である。「手入れ」をどうしていくかが大切になって来る。それはお互いの時間の蓄積を大切にすることと同義である。さらには向き合う人の変わらない軸を大切にすることとも同義である。何だかそんなことを考えている訳である。ともう頭が回らなくなったのでこの辺でこの話は終いにしよう。
今日は1日、朝見送ってから何もしなかった。窓から差し込む日光を眺めながらボケっと過ごした。何をする訳でもなく、ただパソコンのモニターにYouTubeを流した。別にそれを見る訳でもなく、ただ蒲団に座って宙を見上げる。何が起こる訳でもなく、寂寞とした気持ちを抱えながら呼吸をしていた。気が付けば午睡をしてしまった。
結局、夜になってまで珍しく本も読まず映画も見ず、ただ最低限の動作をして過ごして終えようとしている。流石にそれはマズいなと思い、こうしてnoteを書き始めた訳である。人間、暇になると変なことを考えてしまいがちである。良くない。僕は女々しくていけない。久々にKANDYTOWNの曲がYouTubeから流れて来る。
やっぱり、KANDYTOWNカッコいいよな…と思いながら、解散が悲しまれる。そんな1日だった。