雑感記録(102)
【雨の帰り道】
雨が降る。2階の食堂から外を眺める。僕は毎日徒歩通勤をしている。病気になってから多少なりとも気を遣うようになって、出来る限り運動するように心掛けている。ところが、精々通勤時間の往復だけ運動しているのであって、同じ年齢の人と総体的に比べると恐らく運動量は少ない方ではないだろうか。僕は運動が嫌いだ。
リュックからワイヤレスイヤホンとウォークマンを取り出す。Bluetooth接続を済ませ耳にイヤホンを嵌める。「そうか、今日傘持って来てないんだよな…」と気付き、渋々折りたたみ傘を準備しながら階段を降り出口に向かう。強くなる雨。
傘を差し、煙草を飲みに向かう。スーツの胸ポケットから煙草を取り出すのが億劫になる雨。雨の日は決まって手元が危うい。しかし、ニコチンには敵わない。身を屈めおもむろにまさぐる。煙草の挿入には骨が折れる。湿気のせいか煙草はひしゃげてしまう。無理矢理穴へ差し込み、ぐるぐる廻し底へ這わせる。
ボタンを押し、飲めるまでのほんの数秒。雨音に耳を澄ます。傘に落ちる1粒1粒。落ちた瞬間に線となる。一筋一筋上から下へ落ちていく。更新されていく。常に入れ替わり入れ替わり、そして落ちていく。しかし、落ちた行方は知らない。その1つ1つに個体名はなく、追いようもない。仮に名前を与えたとしたらば…。煙草を持つ手が振動する。
煙草を飲む。煙が空を揺蕩い彷徨う。雨が煙を避けるのか、煙が雨を避けるのか。それを考えてみようと思ったが、辞めた。今ここで現れているのだからそれはそれでいいはずだ。眼前に既に起きていることに僕が理由を与えたところで、そんなこととは関係なしに事象は進んで行く。生きていることは常に置いて行かれることなのかもしれない。
ジャケットの右ポケットに入れたウォークマンを取出し、曲を掛ける。流れてきたのは朝途中で止めた音楽。
滅多にクラシックなど聞かない人間である。こういう曲を聞くときは大抵、"何か"を抱えている時だ。自分でも分からない。言葉で説明しきれぬ"何か"だ。それ以上でも以下でもない。単純に聞きたかった。それで十分ではないか。
曲の美しい声が聞こえる。降りしきる雨。そこに流れる時間を僕は存分に味わう。街灯がオレンジ色に光る。しかし、外は明るい。雨が降っているのにだ。遠くから声が聞こえる。壁を挟んだ向こうにある建物から聞こえる人の声か。いや、今聞いてる曲の歌声か。判然としないまま僕は目の前の音に眼を見張ることにした。
手に握る煙草が再び震える。帰路につかねば。オレンジの街灯に眼をやる。LEDでない所が救いだ。この暖かみあふれる光に僕はやられた。雨は容赦なく降る。弱まる気配もない。煙草を抜き、胸ポケットを再びまさぐり機械を戻す。片手に握りしめた吸い殻は熱い。
雨の中歩く。耳もとでは美しい声が流れ続ける。同じ曲が延々と流れる。眼に映る全ての物に意味が生じ始める。言葉で形容しがたい美しさを持って次次と現れる。曲から付与された意味。現存する全てのものには至上の何かがある。
学生。車。街灯。看板。建物。地面。靴。鞄。ガラス。全てのものには"何か"がある。しかし、"何か"とは結局なんであるか。存在は全て何の担保もなしに存在しうるのか。主体が居てこそ初めて意味を持ち得る。人間という主体。我々が生きている限り、全てのことに意味がある。いや、全てのことに意味があると信じたい。ただそれだけのことである。
Reich der Zwecke…
利己的であり、同時に利他的であること。しかし、そんなうまい話がある訳もない。利己的且つ利他的を満たすところには必ず綻びがあるはずだ。そこに存在するものに僕はただ利己的に意味付け、利他的では決してない。そんな土俵の話ではない。根本としてこれ自体の枠組みで収まるような世界では決してない。
もしも、僕の言葉に羽があったら。どこか行けるのかもしれない。言葉が言葉を呼び、空間を旋回する。そうしてありとあらゆる事物は生起する。今日僕が目の当たりにした光景は音楽言語により生起した。新しい生命を宿した。そんな狭い世界ではない。目的や手段を超越した何かだ。
雨は止まない。そして周囲の動きも止まない。あらゆることは止まない。それがどんなものであっても。止むときはきっと僕らが止むときだ。しかし、そう簡単に止められない。人間そう易々と止まることが出来ないように作られてしまった。
ユゴー言うところの「Si mes vers avaient des ailes(もし、私の詩句に翼があれば)」と。もしも何か僕が感じたこのありとあらゆる表情やらそういったものを表現できる程の自由な言葉を持ち合わせていたとしたら。きっと、あらゆるものが美しく見えるのだろうか。それとも逆で、あらゆる事物が美しく見えないからこそ言葉を洗練させるのか。
真っすぐ歩く。ただ周囲の環境に精神を研ぎ澄ませ歩く。主は音楽な訳で、それにして引っ張られるように外界はいつもとは異なる様相を見せる。これが果たして現実か虚構かなんて言うのは問題にならない。僕が今見ているものは現実か?という問いかけはナンセンスだ。
落ちてくる雨を見る。僕らは瞬間を捉えていない。僕らが見ているのは"事後的"な雨に過ぎない。僕らは後手後手でしか生きられない。例え、僕らが瞬間を捉えたと言おうが、そこに瞬間は果たして本当に存在するのか。
ハイスピードカメラで雨を捉えて見れば瞬間が分かるのか。雲のより上に向かい、その雨が生成される瞬間を捉えることが出来るのだろうか。もしかしたら、捉えられるかもしれない。瞬間に立ち会えるのかもしれない。しかし、本当にそれは瞬間なのか。
以前の記録でも紹介した。瞬間とは「将来と過去の衝突」であると。もしもハイスピードカメラがその瞬間を捉えたのだとしたらどうだろう。それは「将来と過去の衝突」が発生しているだろうか。それで本当に瞬間を捉えたことになるだろうか。
言葉で瞬間は捉えられるだろうか。
僕はこうして半ば散文めいた、けったいな文章を書いている訳だが、この場に於いて「瞬間」を捉えられているのだろうか。不安になる訳だが、しかし少なくともハイスピードカメラでは捉えきれない瞬間は表現出来ているはずだ。
こうして文章に起こすと何だか長ったらしくなってしまう。その瞬間が「いや、何分だよ!」と読んでいる時間と瞬間の時間が釣り合わないことがある。これは小説でやってしまったら、それはそれでレッシングに怒られろって話なんだが。
しかし、こういうエッセーじみた形を借りると何だかそれはそれで許されてしまうというのが不思議で堪らない。事物をよく捉えているだのなんだのと評定が下される。改めて小説は技術の産物であると言わざるを得ない。
結論から言えば言葉で瞬間は捉えられるだろうと僕は少なくとも思う。ハイデガーの言うとおりに捉えればの話だが。瞬間が「将来と過去の衝突」であるならば、それは物理的にどうこうという話ではない。今ここに存在するものを捉えるには言葉がやはり必要不可欠だ。
実は瞬間というのは長いのではないのかと考えるようになった。瞬間という言葉が孕んでいる概念が間違えているのではないのか。僕らが生きているのは常に瞬間瞬間の積み重ねであって、瞬間の中を僕らは生きている。瞬間を単体で捉えることが間違いなのかもしれない。
僕が音楽を聞きながら歩き見てきたその光景はきっと音楽の瞬間と事物の瞬間が重なり合ったその時に生まれた美しさなのだ。僕らが生きているこの世界は常に瞬間的であり、実は瞬間というものは継続的なものであるということなのかもしれない。
継続的ということは、こうして書き続けるという行為そのものも実は瞬間を生み出すための発生装置の役割を果たしている訳だ。僕は雨の日の帰り道を今の今までこうして継続的に書き続けることで、雨の帰り道という瞬間を捉えようとしていたに過ぎない。
文章を費やしすぎなのかもしれないが、これこそが本当の意味で瞬間を捉えていることになりはしないだろうか。「書くことは同時に考えることだ」と誰かが言っていた気がする。それこそ正に、「将来と過去の衝突」な訳だ。書かれる言葉はどこへ進むか分からない。自分が一体これから何を書こうとしているかさえ分からない。そんな状態の中で僕は過去を思い出し書き始める。
どうなるか分からないまま書き出し、いつもこうして纏まりが付かず何を書いているのか自分でもしっちゃかめっちゃかになるが、これこそ「本当の瞬間」なのだろうと思える。書くことは瞬間を捉える作業でもある。きっとそうであるはずだ。
結局、何が書きたかったのか分からないまま終えようとしている。雨はどうやら上がったみたいだ。
よしなに。