雑感記録(360)
【知識人という罠と馬鹿】
「合理的な説明をお願いします。」
僕はこの手の文章を見ると吐き気がする。この「合理的」という言葉を使う人間はあまり信用しないようにしている。特にそれを自身の権力と摺り合わせて使われる「合理的」などという言葉は唾棄すべきである。
これはどう考えてみても、この言葉を言うあるいは書く人間にとっての「合理的」である。それにも関わらず、自分自身のその道理やら理性を全く関係のない第3者に言われたり書かれたりしたところでどうにかなるようなものではない。仮にこちらが「これは合理的だ」という回答をしたところで、相手の道理や理性に叶ってなければそれは「合理的」ではないのである。こんな至極曖昧な言葉を振りかざして偉そうにしている人間は責任感が無いように思えて仕方がない。
しかも、「合理的」という言葉には「むだを省いて能率よく物事を行なうさま」とまで記述されている。これも言ってしまえば、その「合理的」と主張する人間は「合理的」を主張して面倒を自分自身で請け負うという面倒くさいことをやってのける。そしてさらに言ってしまえば、その「合理的」を押し付けられるのなら、僕も「むだを省いて能率よく」それに応じようではないか。僕は無駄なことが大好きだから。
僕は今の仕事を始めてからというものの、所謂「知識人」とりわけ大学で働く特定の人間に対する信用というものが無くなった。
こちらに贈られるその文章の殆どはどこか傲慢で、「誰かに何かを伝える」という文章ではなく、ただ「自分の権力誇示としての言葉」がそこには陳列される。僕はそれに触れる度に辟易とする。しかし、仕事なのだから仕方がない。毎回毎回しぶしぶ返事を出す訳だが、今日のその問い合わせにはほとほと愛想が尽きた。こんな奴の為に僕は僕の言葉を浪費したくない。もっと使うべき人に使うべきである。
と書きはするものの、そういう人々の中には良い人だって存在する。
丁寧に、それが形式ばった言葉であっても、こちらに対して敬意を含んでいる言葉というのは読めば分かる。「きっと色々試してみたけど駄目だったんだな」とこちらも優しくなれるし、想像力を働かして僕も敬意を含んだ文章を快く送れるというものである。しかし、最初から「俺は偉いんだぞ。俺に合わせないお前らが悪い」というベールを纏った言葉は一瞬にして分かる。そしてその人の度量が何となく分かる。
僕は「文章の人間性」というものもあると信じて疑わない。
言葉というのは僕等の生活に密着しているからこそ、言葉を使う人間の人間性が反映されると思っている。「何を当たり前な」と思われるかもしれないが、それを全く理解していない人間が存在する。それが僕にとっては「知識人」、大学を転々と渡り歩き「教授」という肩書に胡坐を掻く人間であると思われて仕方がない。論文を書いて「俺は偉いんだぞ」と全く以て関係のない第3者に対して権力を振りかざす人間など底が知れている。教授としての地位は高いのかもしれないが、人間的にはどうなのかというのはその日常的な文章の中に滲み出るものである。
そんな「知識人」など不要だ。
日本は特にだと思うのだが、そういう「肩書」に胡坐を掻いてしまうという傾向が大いにあるような気がしている。それが正しく「学歴」に大きく表れているのかもしれない。これは僕自身も大学に在籍していてヒシヒシと感じていた事である。
別に自分自身を擁護するつもりは微塵もないが、僕は真面目に大学生活を愉しみ、文学や哲学にどっぷり浸かり学問の愉しさを追求した。何度も書いているが、僕は自分の人生の中で1番勉強したと思えるのは大学時代である。同時に勉強というものが物凄くエキサイティングなものであると気付いたのも大学時代である。しかし、以前の記録で書いた友人以外の他の一部を除いた学生たちというのはどこか大学入学がゴールになっている。それを表現する格好の言葉として「大学は人生の夏休み」というものがある。
サークル活動の中でウェイウェイ騒いで、仲間と騒いで朝まで飲んで、高田馬場駅のロータリーで酔いつぶれ…と言った青春を過ごしたことを語りそれを「美談」として語り継ぐことそのものに僕はいつも腹立たしさを覚えている。それは無論、僕がそれを経験できなかったという僻み根性みたいなものも確実にあるだろうが、遊んで毎日生活するぐらいなら別に大学に行かなくたって出来るはずだ。何故わざわざ大学に所属しながら、そんな青春を過ごすのだろうか。
社会人になるとよく分かるが、どの大学を出ようがどの学問を学んでいようがそんなものは関係ない。さらに言ってしまえば、大学でどんな生活を過ごそうが関係ない。そこで如何に自分が考えることが出来るかということが大切なのである。「肩書」が邪魔をして、変な所でクソみたいなプライドで仕事に対して真摯に向き合うことが出来ないなんてことも十分あり得る。大学も言わば狭い学問というものに守られた世界なのである。
だからと言って僕はそれを否定するつもりはない。何故ならば、僕は大学の恩恵を受けたからこそこうしてあること無いことを書けるのだから。そうして社会人になった今でも充実した生活を送ることが出来ているのだから、その当時に出会った物事の全てに感謝をしている。
話が若干ズレたので戻そう。
とかく、今の「知識人」というのは大学という機関に下支えされているという部分に僕は違和感を覚える。それに論文を何本か書けば許される世界であると僕には思えて仕方がない。今回のことにしても、それが滲み出る文章で気持ちが悪かった。何度も書くようだが彼等、一部のそういう人間は「誰かに何かを伝える言葉」よりも「権力を振りかざす言葉」しか使えなくなっているのである。僕はそういう言葉には懲り懲りである。
そして、これも面白いことに、「あなた、どこの大学ですか?」という人の言葉はとりわけその傾向が強い。本当に「自分は偉いんだぞ」ということが言葉の節々に滲み出ており、その傲慢さにはほとほと愛想が尽きるものである。論文では良い作品が書けても、結局こういう日常生活の部分で大したことが書けないようでは二流も良い所だなと僕は勝手に思っている。いよいよ、想像力の無さが全面的に現れる時代が到来しているのだなと僕は勝手に危機感を抱いている。
何度も書くようだが、これはあくまで一部の人間に対してである。
皆が皆こういう訳ではないということを書いておこう。むしろ、大学という場所がこういう人々で溢れかえったらいよいよ日本の学問そのものが終焉を迎える様な気がしてならない。そんな腹立たしさを抱えながらこの文章を綴る。大学人以外の知識人に期待するほかないだろう。
やはり僕は一生アマチュアでいたい。
よしなに。