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愛されなかった幼少期を送った者が人を愛するとき、心の中では身を切り与える血の涙が流されているはずだ。「義母と娘のブルース」感想
2024年正月特番「義母と娘のブルース」を観た。
血のつながらない母と娘の交流を描いたものだ。
「義母」という場合、配偶者の母親を差すのが一般的であると私は思う。
このドラマのケースは、正しくは養母、もしくは継母だと思うのだが、ここではドラマのタイトル通り、以後義母と記述する。
このドラマの義母は、自身が親の愛に恵まれていなかった。
なので、自身の娘に対しては、義理の関係とはいえ、精一杯の愛情を注ぎたい――それゆえの、娘に対する一生懸命な愛情表現だったのだ。
義母にとっての義理の娘は、そのまま幼少期の自身が投影された存在、幼かった頃の自分そのものだった。
娘(義理であろうとなかろうと)を愛することは、とりもなおさず自分自身を愛することだった。
ドラマでは、義母が義娘を愛する理由が上記のように語られていた。
これを観ての私の感想だが――
「言っていることは確かに分かった。
けど、実際問題、何の葛藤も無く、そういうことがあるかなあ」
上で語られた内容はとても美しい。
無償の愛だ。
だが、あまりに理想的すぎる。
血のつながった親でさえ、我が子を虐待するケースがあるのに、上記のようなことが成立しうるだろうか。
虐待の連鎖はなぜ起きるか。
人は持っているものしか与えられないからである。
お菓子を持っている人が、他人にお菓子を与えられる。
洋服を持っている人が、他人に洋服を与えらえる。
お金を持っている人が、他人にお金を与えられる。
持っていない物を他人に与えることはできない。
愛も同じだ。
愛された経験のある人が、他人を愛することができる。
愛された経験のある人は、「自分は愛されるべき存在だ」と自覚できる。
「自分は大切にされることに値する人間である」と自信をもてる。
自己肯定感が、自尊感情が育つ。
「自分に危害を加えない、何の交換条件も無しに、無償で自分という存在を愛してくれる人が、世の中にはいる」と、人を信頼できるようになる。
自分の「存在価値」を認め、他人を「信頼」する人間になる。
世の中には、愛された経験はあることにはあるけれど、「成果を上げることができるのであれば自分は愛される存在だ」と自覚している人がいる。
「テストで良い点を取れば」「志望校に合格すれば」「競争で1位になれば」ほめられる、愛される。
「成果さえ上げれば、自分を愛してくれる人はいる」と、条件付きで人を信用できるようになる。
だから、自分が能力を発揮することは、とても重要だ。
そういう人は、自分の「機能価値」を認め、条件付きで他人を「信用」する人間になる。
自分にあるのは「機能価値」だと考えている人は哀しい。
人間、いつでも成果を上げられるとは限らないからだ。
時にはうまくいかない時もある。
しかし、そんなとき、愛は得られない。
幼少期から、親より、成果と引き換えに愛情を得てきた人間は、自分に「存在価値」が無いと考えている。
存在しているだけで愛されたことがないからだ。
条件付きでなければ愛してもらえなかったからだ。
自分にあるのは「機能価値」だと捉えているのだ。
そういった人間が親になると、どうなるか。
先述したとおり、人間は持っているものしか他人に与えることはできない。
残念ながら、我が子を愛するのも条件つきだ。
「ピアノがうまく弾けたら」「バレエでうまく踊れたら」「サッカーの試合で勝てたら」我が子を愛してやる。
だが、うまくいかなければそうではない。
ほめないだけならまだマシだ。
時には成果が上がらないとき、厳しい叱責が待っている。
エスカレートすれば虐待だ。
これが、さらにその次の世代にも受け継がれていく。
虐待の連鎖である。
中には、後天的な学習と、強力な自制心によって虐待の連鎖を止められる人たちがいる。
自身の親が毒親であったことを自覚し、自分は「機能価値」でしか親から愛されてこなかったが、我が子のことは「存在価値」で愛そうとする。
しかしながら、それはそうそう簡単なことではない。
我が子がおもちゃをねだる。
買ってやろうと思う。
ここで、自身の幼少期の思い出が頭をよぎる。
自分は親からねだったおもちゃを買ってもらえなかった。
仮に買ってもらえたとしても、それは何かの成果を上げたときのご褒美としてだった。
良い成績を上げるとか、賞を取るとか、1等になるとか、そういったときだった。
だが、我が子は、目の前のこの子は、何もしなくてもねだれば買ってもらえる。
親の私が買ってあげるからだ。
ここで、親の心に葛藤が生まれる。
不公平感が発生する。
自分は子どもの頃、あんなにつらかったのに、目の前の我が子はどうしてそうではないのか。
同じ人間なのに、この不公平感は何なのか。
でも、直ぐ我に返る。
いけない、いけない。
自分は我が毒親のようにならないと決めたではないか。
無条件で我が子を愛してあげるのだ。
交換条件など提示するわけがない。
我が子が喜んでくれればいい。
そして、何の交換条件も無くおもちゃを買い与えられ喜んでいる我が子。
子が喜べば親だって喜ばしい。
幸せなはずだ。
幸せなはずなのに、自分の中に、それを「釈然としない」と感じている存在がいる。
確かに居る!
それは、幼い頃の自分自身だ。
「ああ、うらやましい!」
「私はそうではなかったのに、どうしてあなたはそうなの?」
「同じ人間なのに、私とあなたはどこが違うの」
「ああ、私も、私のような親の子だったら良かったのに」
「私の親が、私みたいだったら良かったのに」
心の中の幼き日の自分は、喜ぶ我が子を見て、血の涙を流す。
そこには、うらやましいという心。
そして、認めたくはない、決して認めたくはないが、くやしい、ねたましい、ずるい、悲しいといった、我が子に対するネガティブな心が確かにある。
我が子に対して、そんなネガティブな感情を抱いてしまっている自身に「はっ」とし、「こんなことではいけない!」と必死に全力で気持ちを立て直す。
愛されたなかった生い立ちをもつ人が、後天的な学習と強力な自制心によって虐待の連鎖を断ち切ろうとするとき、そこには上記のような葛藤が必ず生じている。
人は持ってないものを、与えることはできない。
愛されなかった人が、他人を愛するとき。
それは、持ってないものを与えようとしているわけだから、もう身を切り与えるしか与える術は無いのである。
だから、血を流すのである。
心が血の涙を流すのである。
「義母と娘のブルース」を見て、私は義母にこのような葛藤が全く描かれていないことを不自然に思った。
自身が親の愛に恵まれない生い立ちだったのに、娘――それも血のつながらない関係の――に対し、無償の、それも最高の愛を、彼女は注いでいるのである。
聖人君子だ。
人として、高みに居過ぎている。
世の中には、少数だろうとは思うが、現実にこういう人もいるのかもしれない。
だが、極めてレアケースだと思う。
人として、最高難度のふるまいだ。
大人はよく若者に言う。
「いいか、自分が若い頃はだな……」
と、昔の自分が現在の若者に比べていかに恵まれていなかったかを語る。
それは、今の若者に対する、くやしい、ねたましい、ずるい、悲しいといった思いである。
並の人間はこうなのである。
「義母と娘のブルース」は、並ではない人間を描いた。
よくある話ではないからこそ、ドラマになったのであろう。