ホテルでの隔離生活が解除になり、やっと家族一緒に暮らし始めて1か月が過ぎた。 だんだんと住んでいる街の地図が頭に入り、休日には家族でのんびり出かけたり出来るようになってきた。 ただとにかく言葉がわからない。 当たり前だけども。 何をするにもスマホの翻訳アプリ頼みで(ありがたい)、買い物も宅配アプリ(ありがたい)、バスも地下鉄もタクシーも交通アプリ(ありがたい)、支払いもスマホでQRコード払い(ありがたい)… 気付くとそんなに会話しなくても生活を営むことはできてしまうのがあ
夫が仕事で中国へ赴任したのが20年の1月。 そこから紆余曲折をへて、やっと家族で中国に来た。 でもまだ一緒には暮らせない。 外から来た私たちは2週間ホテルの室内で隔離生活を送り、完全に陰性だと確認された後にやっと家族と一緒に暮らすことができる。 ここに至るまでの日々は、思い返してもうんざりするほど多忙で混乱して一息つく間もないほどだったので、本当に久しぶりにテレビのニュースを見たりして過ごしている。 子どもと二人で過ごすにはまぁ十分な広さの部屋に入れてもらい、三食ドアの前
息子がピアノを習い始めてふと心によぎったことを。 思い返してみると、幼稚園からピアノを習い始めた私は本当に練習が嫌いだった。練習しないからもちろん遅々として教本が進まず、7年ほど習ってブルグミュラーを終わった小6でさっさとやめた。 小3の時に音楽の先生から「4年生が全校集会で歌うのに伴奏がいないから、3日でなんとか練習してみてほしい」と言われたことがある。 (4年生が歌う歌の伴奏をなぜ3年生の私が…?) なぜ私なのかも疑問だったし、当時の私には難しすぎて到底無理だと思った
本当に、どうなってしまうんだろうか。 いろいろな意見を見ては上に下に気分は揺れ動く。 ”変えられることについては変えるだけの勇気を、 変えられないことについてはそれを受け入れるだけの心の落ち着きを” 変えられないことを考えるより、変えられることを考えよう。 とりあえず、幼稚園の休園によりずっと一緒に過ごすことになった息子との時間の過ごし方を考えよう。 一緒にやって楽しいこと。息子の気持ちがワクワクすること。 テレビに頼りすぎないように。なるべく毎日体を動かせるよう
正月明けに夫が中国に渡航した。 そして3月末に家族で渡航する、はずだったけれど、結局それは延期になった。あっという間の出来事でちょっとまだ実感がないけれど。 あれよあれよという間に中国での感染が広がり、武漢が閉鎖され、危険レベルが上がり、家族の渡航は禁止になった。 渡航延期によって、子供の習い事をやめるのをやめる連絡、日本の小学校に入学する連絡、周りの人への説明、引っ越しの取りやめなどなど、いろいろあったけど、致命的なタイミングじゃなかったのでダメージは最小限で済んだ。こ
夫が仕事で中国に赴任することになった。 遠からずそういう可能性があることは分かっていたけれど、決まった時はやはり動揺した。 まず行き先が中国である不安。 食べ物も環境も治安も心配だった。子どもがいるから特に気になってしまう。 それから生活を変えることへの不安。 住み慣れた家がある。親子ともに馴染んで来た地域とのつながりがある。息子は仲良しのお友達と同じ小学校に入学するつもりでいるし。 不安ばかり先に立って、どうしても「じゃあ家族で行こう」とすんなり言えなかった。 夫は
女性のグループ行動というのが苦手であることを、子供が幼稚園に行くまですっかり忘れていた。 仕事場でもなんとなく「一人でご飯に行っちゃう人」的に認知されていたので楽ちんだったのだけど… 幼稚園が終わった後、子どもを遊ばせている時間があって、そこではそれぞれ仲の良いお母さん同士集まって話しながら過ごす人が多い。 私は特別仲の良いお母さんというのが居ないので、状況に応じて同じクラスのお母さんと話したり、子どもが一緒に遊んでいるお友達のお母さんと話したり、時には一人でぼーっと待って
息子はよく「かあちゃん、とうちゃん、じじばば、おじちゃん、おおばが一番好き。あと自分も好き」と言う。 6歳の息子にとって「自分が嫌い」なんて思いもよらないだろう。そういう発想もないだろう。なるべくならそのままでいてほしい。 だからいつでも「それはすごく素敵だね!」と力いっぱいうなづく。 私はいつから自分が嫌いになったんだっけ。 始まりのことははっきり覚えていないけれど、高校生くらいの頃にはものすごく自分を嫌いになっていた。 その頃、自分の中の弱さや邪悪や下心や嘘に正面から気
私はずっと子どもが苦手だった。 年下の兄弟もいなかったし、従姉妹も遠く会う機会も無く、つまり自分が子供じゃなくなったころから一度も間近で子どもを見たことがなかった。 子どもはストレートで距離感がなくて、どう接したらいいか分からなかった。 夫と結婚してもしばらくは二人で生活するのが幸せだったし、そこに「何か欠けてる感」を感じることが出来ずにいた。むしろ子どもがいたら出来なくなることがいろいろある気がして先延ばしにしてきたかもしれない。 私は子どもの居る幸せを知らなかった。想
私の子供は幸いなことに今までほとんど病気にならずに育ってきた。 もちろん鼻水、咳、ちょっとした熱くらいはあったけれど、何日も寝込むようなことは無く、何度か抗生剤を処方されたことはあったが飲ませずに様子を見ているうちに回復する。 でも今年に入って既に2回、高熱で寝込んだ。 どちらも咳から始まり、微熱が、そして高熱が出てくる。 熱が長引くパターンは初めてで、私はすっかり動揺してしまった。 「今までになかった病状」というだけで。(夫の幼少期の病歴がかなり大変で、子供にも起こりえる
最近、受ける人が多くなってきたこの診断、検査が簡単になりハードルが下がったことで不安な人がたくさん検査を受けているという。 私は受けることについては夫婦の判断だし、そこの是非については何も言うことは無いのだけど、どうしてもこだわってしまうところがある。 検査を受ける人の中にはもちろん、「どんな結果が出ても産む。子供に障害があると分かれば準備が必要だから知っておきたい」という人もいるだろう。 でも、そうじゃない人が多いと思う。検査結果次第で「迷う」人たち、そして「子供に障害が
子育ては本当に難しい。 私は子供が1歳になって言葉を話すようになるまで常に追い詰められていた。 夫は育児にも家事にも協力的だったが、それでも夫の居ない時間が本当に辛かったのは、自分で自分をどんどん追い詰めていたからである。 そうなってしまった背景として考えられるのは、まず私と実の親との間に信頼関係がないこと、私に自信が無いこと、それから私が真面目すぎることだ。 親との関係が悪化した経緯についてはまたいつか書くとして、とにかく自分と親のような関係の親子には絶対になりたくな
ハーフパンツに虹色のボーダータイツを会社にはいてくるような子だった。 当時、大手企業で派遣社員として働いていた私のフロアに新しく入った派遣さんに、お偉いさんは分かりやすく服装に眉をひそめてたし、私も自分とは住む世界が違う人だと思い込んでいた(私も服装で判断していたのだ)。 でも、見てきた世界や好きなものが全く違うのに、私たちは何故かものすごく惹かれ合ってあっという間に友達になった。勤務棟が変わっても社内便で手紙を送りあい、今でもその手紙は全部大事にとってある。 彼女はフ
LaLaLandのエンディングにまつわるSNSのコメントの中に監督の言葉を上げている人がいた。 「人は、残りの人生を決定づける人と結びつくことはできるが、その結びつきは残りの人生までは続かない。そのことは、ものすごく美しくて、切なくて、驚くべきことだと僕は気づいたんだ。」 私の人生を決定づけた転機となった人がいる。 私に「旅」の世界を教えてくれた人だ。 夏休み、まだ高校生だった私が国道で信号待ちをしていた時、同じ高校の先輩が自転車で通りがかったのだ。 今でも鮮明に覚え
おじさんはいろいろな話しをしてくれたのだけど、その中でもう一つ印象に残っているものがある。 ちょうど私たちがケニアとタンザニアを旅している間にテロリストによる大使館爆破事件があり、たくさんの死傷者が出た。まぁ島はのんびりしたものだったけどニュースではすごく不穏な空気が漂っていた。 「この間爆破事件があっただろう?あれがものすごく悲しいんだ。またアフリカが『怖い国』『危ない国』というイメージが広がってしまうから。ああいうテロリストはいわゆる普通のイスラム教とは全く違うものな
ものすごく前のことだけど、アフリカに友人と行ったことがあって、その時Lamu島にも行った。 きれいな海より何よりも強烈に心に焼き付いているのは森の奥で出会った一人のおじさんのこと。 そこへ連れて行ってくれたのは宿で働いてるお兄さんだった。 いまいちどんな場所なのか分からずに着いて行ったら、そこはおじさんが一人でやってるバー?みたいな場所だった。 バーと行っても屋根も壁も無く、森の少し開けたところに切り株の椅子がいくつかあるだけ。どうやらそこで飲めるのはヤシの樹液を発酵させた