
ペンを持て、やさしさを享受せよ(コミックつき)
自省的な内容が含まれるので、苦手な人はお戻りくださいね。
読書ってまるで、どこまでも続く海の底を歩いているみたいだ。
「さみしい夜にはペンを持て」を読み終えた。読み終えると、そこには、イソギンチャクの草原が広がっているような気がした。ゆらゆらと潮の流れにうながされ、一つも同じ方向に動かない、ピンクや翡翠色のやわらかい触手。タコジローが見て、心を動かされたように。きれいすぎて怖いような、でも、眺めているだけだから安全なような。少なくともわたしは、ここにいる。
山椒魚は、山椒魚という自分自身を好きになりたい。いや、実は結構好きだ。だけどそれを、どこかで拒否するような、恥ずかしがるような感じで、自分と付き合っている。だからもっと好きになりたい。正々堂々、自分を好きでいたい。うつになっちゃったけど、そんな自分も含めて、まるごとぜんぶ受け止めたい。
だから、わたしは書く。
山椒魚はそわそわしていた。不安だ。仕事に戻れるか不安だ。戻った時に山椒魚はなんと言われるか。邪険にする人はおそらく居ないだろう。腫れ物に触るように言葉を選んで話しかけてくれるのだろう。
山椒魚は、その気遣いをさせることが、嫌だという。やさしさが、山椒魚に向いてしまうことが、嫌だという。
とすると、山椒魚は、やさしさを向けられることが、嫌なのか。
(三人称を試してみたけど、疲れたので、一人称に戻します。)
山椒魚は考えた。山椒魚は、自分に本当のやさしさで接するのが下手だから、人からのやさしさにどう対応していいのかわからないのだと思った。
わたしは、自分を追い詰めて、勝ち上がってきた。一方で、勝てないとわかると、負けを認めて、頑張るのをやめた。自分に対して厳しく、一方で極端に甘い。これは、過保護だ。そしてこれは、幼い時の、母のわたしに対する態度によく似ている気がする。母のことは好きだ。しかし昔は反発していた。ひどいことを言ったこともある。しかし、今の自分ができたのは母のおかげだ。とても感謝している。母はわたしを可愛がってくれたと思う。記憶には、怒られた記憶と、やさしくしてくれた記憶と、両方がごちゃごちゃにある。
母は完璧主義的で、納得のいくやり方を突き詰める。わたしも母譲りの部分がある。では、自分に優しくすることはできないのか?人の優しさを、ちょうどよく受け取ることができるようになるには、どうしたらいいのか?
考えてみる。その結果、まずは自分の中にいる子どものわがままをとことん聞くことにした。
今まで、たまに聞いて、たまに自制してきた。その自分の声を、とことん聞く。耳を傾ける。それで、自分は自分を大切にできるんだと証明する。(試しに、今いる喫茶店で、チョコケーキを頼んでみる)
そして、そのわがままを聞いてくれた自分に、当たり前だという顔をせずに、ありがとうと、いたわり、お礼をする。お礼を形にする。たとえば、ここでnoteを書くのをもう一踏ん張りする。
これを、人からのやさしさに当てはめるとどうだろうか。優しくしてもらったことに対して、申し訳なく思うのは、逆に失礼なのではないか?ありがとうと受け止め、ニコニコするのが、人に対してもいいのではないかな。
やさしくしてもらったら、失礼がない程度に、ありがとうございますという。今までも、それはできていたが、裏で、「気を遣わせているな」「本心ではないのだろうな」などと思っていた。本当に失礼なのはどっちだ。
どうだろうか。
職場に戻る。まずは感謝と謝罪をする。おかげさまでと口にする。ありがとうございますと言う。そこには裏のない素直な気持ちで。自分に対していうように、人にもやさしく。
チョコケーキは、少しほろ苦く、それでいて口に甘い。
自分には甘すぎるかも、と思った。しかし、受け取っていいのだ。今はわがままをきく。その分後から頑張る。それくらいの負荷はかけてもいいだろう。
やさしさを、どこか武装のように感じていたけれど、これからは、ちゃんと受け取れるかな。まだ少し不安だ。だけどさっきよりも減っている。
チョコケーキをほおばり、やさしさを享受する。
