#55 感動のバトンをつなげ~魚豊『チ。 地球の運動について』より~|学校づくりのスパイス
今回は、魚豊氏のコミック『チ。 地球の運動について』(小学館)を取りあげたいと思います。この物語は「C教」(キリスト教のデフォルメ)の教義の核である天動説に異論を唱えた人々が、異端として迫害を受けつつも本や口伝により継承されていく様を描いた作品です。今回のテーマはこの作品を足がかりにして、現在の学校から失われつつある「感動を伝える」という働きについて考えてみます。
人をして命をかけさせるものは何か?
物語の時代設定はコペルニクスが地動説を唱えはじめるよりも少し前の14世紀です。当時の天体運動の説明に疑問を抱き、地球が運動しているのではないか、という予感に心を動かされた人々が、その時代の正義――天動説からの迫害を受けながらも、真実を追い求めた姿が想像たくましく描かれています。
天体観測によって地動説は徐々に説明力を高めていきますが、地球が動くことを認めない異端審問官に企てが露見しては処刑されていきます。そうした何人かのバトンタッチを経て、ついに天才修道士バデーニの手によって地動説は完成に近づきます。そして地動説に惚れ込んで協力者となった代闘士(依頼者の代役で決闘を行う仕事)のオクジーとともに、その説を公表しようと計画しますが、二人もまた、あと一歩のところで計画が露見して捕らえられてしまいます。そして拷問の末に計算式を記した書類も焼却されたあげく、二人とも処刑されることになってしまいます。
二人は満点の星空の下で絞首刑台に並び立ちます。死刑台の上で「これで我々も地獄の入り口に立ったな」と皮肉るバデーニに対して「天界のですよ」とオクジーは否定します。「そう言い切れるか」と切り返すバデーニにオクジーは次のように返答します。
「ええ。今俺の目の前にあるコレが地獄の入り口って景色には見えない。今日の空は絶対に綺麗だ」(5巻、90~92頁)。
二人はそのまま絞首刑に処されてしまいますが、地動説の命脈をつないだのはオクジーの遺した手記でした。この手記は地球が動いていることに彼が気づいたときの感動を綴ったもので、予防線としてホームレスたちの頭にタトゥーとしてバデーニが刻ませたものでした。この手記が後に異端解放戦線の組織長ヨレンタという女性の手にわたり、そのヨレンタもまた、その後追っ手からこの手記を守ろうと盾となって自爆死してしまいます。
この物語では、このようにして主人公が次々と命を落としていきますが、地動説の命脈は口伝や書物のかたちで次の継承者へとバトンタッチされていきます。当時社会正義とされていた教義よりも、理性によって導かれた地動説の論理そのものよりも、世界と向き合うなかで発見した世界の美しさや感動こそが、人と世界を動かす力になっていく……そのドラマがここでは描かれています。
感動のバトンをつなげ
さて、学校教員のなり手不足が深刻な社会問題になっています。教員採用数が増えていることもありますが、それ以上に教職志望者自体が激減しているのが最大の要因です。多くの若者に、教員という職業はあまり魅力的に映ってはいないのです。
文部科学省はこうした事態を重く見てツイッター上で「#教師のバトン」をはじめましたが、目論見が裏目に出て炎上騒ぎとなってしまいました。
教師は魅力的な仕事です。現在の教員の勤務環境に問題が多いのは紛まぎれもない事実ですが、自分の教え子が成長していく姿を目にする幸福に日々預かれるというのは、他の職種ではなかなか得られない喜びでしょう。
教員2千人を対象に実施された「教員の意識に関する調査2022」(ジブラルタ生命保険〈株〉)では、「生まれ変わったら就きたい職業」として「教員」(17.8%)が医師や研究者、スポーツ選手を抑えてダントツの1位であったとする結果が公表されています。
子どもの成長にはさまざまなドラマがあります。実際に学校の先生方と膝を交えて話をしてみると分かるのですが、現在教員をしている多くの方々は、子どもや若者と人として交わり、成長を支えるなかで得られた、宝物のようなストーリーを持っています。
けれども、こうした魅力はSNSにありがちな断片的な文章で伝えることは至難の業です。というのも、人をして感動を生むのは往々にして世界と向き合うほかの人のあり方であり、それは人の生きてきた文脈と切り離すことのできないものだからです。
「地球が運動している」ということは、そう教えられた私たちにとっては当たり前のことです。しかし、天球が回っているものと誰もが信じていた時代に、動いているのは地球のほうかも知れないという、宇宙の秘密を垣間見たときの驚嘆はどれほどのものであっただろうかと想像します。この物語はそうした感動が、人から人へとバトンタッチされていく姿を描いたものですが、その背後には宇宙の真実という、自分の命までも賭けられるような何かに感動した人の心の軌跡がありました。
実は教育という営みにもこれと似たところがあります。それは自分よりも大きなものの存在を感じとり、そこに自分自身を託していくことのできる仕事である、ということです。
教員の処遇と給与を天秤にかけたら、「割に合わない」と感じる人の気持ちは分かります。学校が曲がり角にさしかかっている今日、教師の仕事はその根本から再定義される必要があるのではないかと筆者は考えています。
しかし、そうであればこそ忘れてはならないのは、人を育てる仕事の価値が自身にとって持っていた意味とその伝え方です。
皆さんがもし教師で、その経験のなかに伝えるべきものがあり、それを伝えうる誰かが近くにいるのであれば、それを自分の言葉と生きざまで伝えていくことは、これからの学校を担っていく後進のためにも、そして彼らの背中を見て育つ子どものためにも大切なことなのではないでしょうか。
(本稿は2018年度より雑誌『教職研修』誌上で連載された、同名の連載記事を一部加筆修正したものです。)