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#78 脳力観の転換|学校づくりのスパイス(武井敦史)

【今月のスパイスの素】
岩立康男
『忘れる脳力――脳寿命をのばすにはどんどん忘れなさい』

 とくにベテランの先生方のなかには、記憶の悩みを抱える方も多いでしょう。実は筆者もその一人です。筆者のエピソードを一つ打ち明けましょう。車での出張が多いので、コンビニで昼食とアイスコーヒーを買い求め、運転しながら食事を済ませることが筆者にはよくあります。過日もそうして出たはずが、手元にコーヒーが見当たりません。あれ?と思ってあちこち探してみたところ、袋の中に溶けかかった氷の入ったカップを発見しました。

 この手の屈辱をしばしば経験する筆者の目には、100人を超える児童・生徒の名前と顔をわずかな期間に憶えられる学校教員の記憶力は、ほとんど神業かみわざに映ります。

 今回は同じ悩みを抱える人にとって福音となるであろう『忘れる脳力 脳寿命をのばすにはどんどん忘れなさい』(朝日新聞出版、2022年)を取り上げます。執筆者の岩立康男氏は脳神経外科学を専門とする研究者ですが、「記憶」という生理現象の仕組みがわかりやすくまとめられているのが、本書の特徴です。

岩立康男『忘れる脳力――脳寿命をのばすにはどんどん忘れなさい』朝日新聞出版

大切な「忘却」

 脳神経外科を専門とする岩立氏とて記憶の悩みと無縁ではないようです。本書には「『何でこんな簡単なことが思い出せないんだ!』と情けないやら、腹立たしいやら、落ち込んでしまっていた」(58頁)と氏の悩みが綴られていますが、「ある事実」を知るに至り、気持ちが楽になったと綴られています。

 なぜそう思えたのか、本書で開陳されている記憶メカニズムを以下にまとめましょう。

 まず一口に、記憶といっても言葉で表せる「陳述記憶」と言葉で表せない「非陳述記憶」があり、さらに「陳述記憶」にも普遍的な知識や概念などの「意味記憶」と、出来事に関係する「エピソード記憶」があって、それぞれ脳の対応部位が異なるといいます。

 いわゆる物忘れに関係するのは多くの場合「エピソード記憶」とのことです。

 記憶とは脳内に新たな神経回路がつくられることでつくられるものと筆者は勝手に思いこんでいたのですが、どうも違うようです。

 脳内の神経細胞(ニューロン)の末端には化学物質によってニューロン間の情報の受け渡しを行うシナプスと呼ばれる組織があり、ほとんどの記憶は「既存のニューロン同士の結びつき方が強くなったり、弱くなったりする」(36頁)ことでつくられるそうです。

 言葉で表せる「陳述記憶」はまず海馬において処理され、そのなかで重要な情報のみが時間をかけて選別されて大脳に移されるそうです。

 このシナプスの情報伝達においてはタンパク質が重要な役割を果たしており、この観点からは「忘却とはタンパク質が壊されること」(51頁)であるととらえられるそうです。脳内のタンパク質は時間とともに徐々に壊れていくのですが、それと同時に、忘却機能をあえて高める機能をもつ「Rac 1」というタンパク質も脳内には存在しているそうです。

 先に述べた「ある事実」とはこのタンパク質の存在のことです。

 では、なぜ直接大脳で記憶の処理を行わず、また積極的にエネルギーを投入してまで忘却を加速する必要があるのか?それは脳のキャパシティには限界があり、「忘れることがなければ、新たな記憶を獲得することができない。さらに言えば、新たな記憶を獲得できなければ『考える』ことができない」(137頁)ためであるといいます。

 また、考えることが忘却を促進する側面もあり、あまり考えない人は記憶が留まっていきやすい(138頁)とも指摘されています。

「脳力」と学校教育

 さて、今回この本を取り上げたのは、記憶力の低下に悩む同胞のために言いわけを用意するためだけではありません。脳機能の捉え方の変化は、子どもの知的発達や学力の捉え方の転換につながることを、教育関係者なら意識しておく必要がある、と思うからです。

 ネット上の情報を自在に参照できるようになった今日、単純な知識より問題解決や創造につながる活用力の方が重要になることはしばしば強調されてきました。けれどもそれは多くの場合、「知識も多いに越したことはないけれど、活用力の方がより重要になる」という相対的な意味においてでした。

 たとえ無意識的にであれ、記憶には無限の拡大余地があるかのようにイメージされてきたからこそ、社会共通に必要とされる知識を子どもの脳にインプットすることに学校教育は相当の労力を投入してきたし、知識を競うクイズ番組は今も人気を博しています。

 もちろん脳機能の研究が発展途上である以上、岩立氏とは別の見方もあるはずです。けれどももし、本書で指摘されているように、もし脳のキャパシティには絶対的な制約があり「ある記憶」と「ほかの記憶」、あるいは「記憶」と「思考」とがトレードオフの関係にある、としたらどうでしょう。

 家に書棚が無数にある状況と、一つしかない状況とを想像して比べてみてください。

 後者の場合、何をどれだけ蓄えられるかという視点よりも、必要な知識(本)をどのように選別して入れ替えていくか、という課題が前面に出てくるはずです。また、ほかの人がもっていたり図書館で借りられたりする本をそろえておく必要性は低下します。

 同様にして、脳機能を本書のように捉えるならば、必要な記憶を精選して憶え、必要のないことは「うまく忘れる技術」こそが重要になってくるはずです。また、集団が発揮する知の生産性の観点からすれば、教科書やネットで目にするような共通性の高い知識よりも、オタク文化のなかで育まれるような稀少性の高い知識のほうに価値がある、という結論が導かれるかもしれません。

 自身の記憶力にかげりを感じてきたなら、それを新たな時代の先駆けであると考えてみると、もっと楽しんで「脳の成熟」とつき合えるかもしれません。

【Tips】
▼岩立氏は「熟考」・「直感」・「集中」についてもとても面白い見方をしています。

(本稿は2018年度より雑誌『教職研修』誌上で連載された、同名の連載記事を一部加筆修正したものです。)

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【著者経歴】
武井敦史(たけい・あつし)
 静岡大学教職大学院教授。仕事では主に現職教員のリーダーシップ開発に取り組む。博士(教育学)。専門は教育経営学。日本学術研究会特別研究員、兵庫教育大学准教授、米国サンディエゴ大学、リッチモンド大学客員研究員等を経て現職。著書に『「ならず者」が学校を変える――場を活かした学校づくりのすすめ』(教育開発研究所、2017年)、『地場教育――此処から未来へ』(静岡新聞社、2021年)ほか多数。月刊『教職研修』では2013年度より連載を継続中。

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