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#53「かけ算の学力」を考えよう~オードリー・タン『オードリー・タン デジタルとAIの未来を語る』より~|学校づくりのスパイス

 今回はオードリー・タン氏の主張をとりあげてみます。氏は台湾において35歳で史上最年少のデジタル担当の政務委員として入閣し、マスクマップ〈注〉 でコロナ危機にいち早く対応したことで一躍世界から注目を浴びました。

 独特の風貌や人柄、卓越した才能や業績から、世間のまなざしは、とかく氏個人に集中しがちですが、一方で氏が目指しているのはどんな社会であり、それが実現可能か否かという問題が議論されることは希です。

 今回は『オードリー・タン デジタルとAIの未来を語る』(プレジデント社、2020年)を手がかりに、「社会集団の知性」という問題について考えてみたいと思います。

「社会集団の知性」という難問

 近年、現在の民主主義という仕組みへの信念が揺らぎつつあります。中国をはじめ、国の権力が集中している国家では、経済成長が相対的に早く、感染症拡大等についてもスピード感のある対応がとられた一方で、日本や欧米等の民主主義国家の状況を見ると、総じて経済成長も鈍化しつつあり、政治的にもポピュリズムが幅を効かせています。では権力集中が望ましいのかと言えば、そうではありません。そのリスクはロシアのウクライナ侵攻を見ても明らかです。

 本書のなかで開示されている氏の主張はデジタル・AI、政治、福祉、教育、哲学等々と多岐にわたります。このため一見独立したトピックを幅広くカバーしているかのように見えますが、そうではありません。本書で展開されている氏のさまざまな主張や行動は、いずれも「人間の社会集団がどのようにして最大の知性を発揮しうるか」という問題意識に紐づけられていて、とくにデジタル技術を駆使することでこれを実現しようとする、一連の思考と行動の軌跡として読めるものと筆者は解釈しています。

 たとえば、氏は1週間のうち「水曜日はほとんど社会創新実験センター内の執務室にいて、朝から夜まで、誰でもここに来て話ができるようにして」(155頁)いるそうです。一方でデジタル担当政務委員のオファーにあたり、「出席するすべての会議・イベント・メディア・納税者とのやりとりは、録音や録画をして公開する」(126頁)ことを委員受諾条件の一つとして要求したと記されています。

 「これで本当に仕事が回るのだろうか」という余計な心配はともかく、一方で直接対話によって多様な意見を集めつつ、他方で自身の思考や発言もすべて公開することで施策の判断プロセスも透明化していくのが政務委員としての氏のスタイルのようです。

 では、世論調査のような量的データに頼るのではなく、一見非効率にも思える「対話」というアプローチをとるのはなぜでしょうか。氏はこうした行動の背後にある考え方について次のように述べています。

 「私の仕事は非常に明確で、様々な異なる立場の人たちに対して、共通の価値を見つけるお手伝いをすることです。いったん共通の価値が見つかれば、異なるやり方の中から、皆さんが受け入れられるような新しいイノベーションが生まれます」(160頁)。

 社会に多様な考え方や軋轢が存在するのはもちろんですが、氏はそれらを多数決や折衷案のみによって解決しようとはしていません。デジタルを駆使しつつ、オープンな対話を通してイノベーションを生み出し、それによって課題に対応しようとするところに氏のアプローチの特徴があります。

 マスクマップもまたその一事例であったと言えるでしょう。

オードリー・タン著、プレジデント書籍編集チーム編『オードリー・タン デジタルとAIの未来を語る』プレジデント社

「かけ算の学力観」を

 こうしたタン氏自身の試行錯誤と、集団としての知性の発揮のための仕組みを社会が実装するという課題の間には、まだ相当の距離があることは間違いありません。

 しかし、氏の問題提起は今後の教育を考えるうえでも本質的なものであるということは、次のように氏の教育に関する記述にもはっきりと表現されています。

 「プログラミング思考とは『一つの問題をいくつかの小さなステップに分解し、多くの人たちが共同で解決する』プロセスを学ぶことです。『最初から最後まで一人の力で解決方法を考える』やり方とは異なる方法を学ぶことで、どの分野でも通用する『問題解決の方法』が身につくでしょう」(211頁)。

 この考え方は昨今強調されつつある「探究」やプロジェクト型学習(PBL)の考え方にも、きわめて近いものです。しかし、今日の学校教育の中核を、こうしたPBL型の学習に向けてシフトしていくのには、教員の多忙や教材開発等以外にも大きな課題があります。

 それは今日の学力の基準が、あくまでも個人を単位としてしか測定されないようなものである、ということです。もちろん、全国学力学習状況調査の順位や高校卒業生の大学合格者数のように、集団のパフォーマンスが問われることもありますが、これは個人の総和や平均としての学力であり「足し算の学力」に過ぎません。

 これに対して、価値創造が強調される今後の社会においてとくに必要となるのは、お互いに異なる考え方や能力をもつ者同士が協力し合いながら、単なる個人の総和を越えた力を集団として発揮できるかどうかが問われる「かけ算の学力」であるはずです。

 テストで全員70点以上をとっているのに、平均点は60点ということはあり得ませんが、グループでプロジェクトをしたときに、児童・生徒一人ひとりはみな力を発揮したつもりでも、全体としては成果が出せなかったということは、いくらでもあり得ます。

 これからの多極化する社会のなかで、経済的にも文化的にも人が幸せに生きていける社会をつくっていけるかどうかは、多分にこうした集団の知性をうまく発揮できるかどうかにかかっていると筆者は考えます。

 その気になれば、学校カリキュラムのなかで「かけ算の学力」を育てていくことも、またルーブリック等を用いて集団全体の学力をアセスメントしていくことも、工夫次第で可能であると筆者は考えています。

〈注〉マスクの在庫状況をオープンデータ化したもの。このデータをもとにどの店舗にどれだけマスクがあるのかをわかるようにした地図アプリが開発された。

【Tips】
▼タン氏は教育についても積極的に発言しています。

(本稿は2018年度より雑誌『教職研修』誌上で連載された、同名の連載記事を一部加筆修正したものです。)

【著者経歴】
武井敦史(たけい・あつし)
 静岡大学教職大学院教授。仕事では主に現職教員のリーダーシップ開発に取り組む。博士(教育学)。専門は教育経営学。日本学術研究会特別研究員、兵庫教育大学准教授、米国サンディエゴ大学、リッチモンド大学客員研究員等を経て現職。著書に『「ならず者」が学校を変える――場を活かした学校づくりのすすめ』(教育開発研究所、2017年)、『地場教育――此処から未来へ』(静岡新聞社、2021年)ほか多数。月刊『教職研修』では2013年度より連載を継続中。

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