#27「内向き」キャリア教育のすすめ~ダニエル・ネトル『幸福の意外な正体』より~|学校づくりのスパイス
公教育の目的としての「幸福」への注目が世界的に高まっています。『教職研修』2020年4月号でも特集が組まれましたが、子どもが生涯にわたっての幸福な人生を送れるように支援することこそ、多くの教師にとって本懐であるはずです。
ところがこの「幸福」という概念は、科学的に扱うのが非常にやっかいです。「自分がどの程度幸せと思っているか」という主観の問題として考えれば事は単純ですが、それならば独裁国家のように「自分以上に幸福な人を見せなくする」ことや、もっと単純に薬物の投与によって効果的に達成されるかもしれません。
けれども一方で、幸福の客観的条件を設定して人の幸福を測定しようとするのもおこがましいことなのではないかと筆者は考えています。幸福の感じ方も広それぞれであるはずだからです。よく各国・各県の幸福度調査の順位が話題になることがありますが、雑談ネタにとどめておいてほしいものです。
今回は近年あらためて注目を浴びつつある「幸福」と教育の関係について、幸福学の第一人者であるダニエル・ネトル氏の『幸福の意外な正体――なぜ私たちは「幸せ」を求めるのか』(きずな出版、2020年)を手がかりに考えてみたいと思います。
幸福追求のパラドクス
私たちは幸福を求めているし、他人もそうだと思って生きてます。そして、だからこそ所得や地位や生涯の伴侶など、さまざまなものを獲得しようと生涯を通じて努力するのだと考える人は少なからずいるはずです。
本書に出てくる調査の結果はこの信念に異を唱えるものです。配偶者の有無、社会的地位、所得等は幸福感と統計上は相関があり、それらを獲得した直後は幸福感が増加するものの、人はすぐにそれらに慣れて当たり前になってしまう(131頁)といいます。
一方で、遺伝的な特性の強い神経症的性格傾向と幸福感は相当程度逆相関していることも指摘されています(163頁)。実際、過去半世紀の間に先進国の一人あたりの所得は何倍にも増えたのに、幸福度はまったくといっていいほど変わってない(128頁)そうです。
確かに私たちが努力の分だけ幸せになっているわけではない、ということは、筆者も含め、多くの人が実感しているところではないでしょうか? では、このボタンのかけ違いはどこから生じるのでしょうか?
それは「あるものへの『欲望』をつかさどるメカニズムと、手に入ったものを『好きだと思う感覚(快感)』をつかさどるメカニズムは、まったく別物」(192頁)であるためであり、次のようにその原因は私たちの進化の歴史にあるというのです。
「人間の脳はドーパミンにどっぷり浸かった欲望システムによって装備されていて、昇進や昇給、豪邸や家財、魅力的な伴侶や平均2.4人の子どもを得るために、他人と競うよう私たちを仕向けます。脳がこれらのものに人を惹きつけようとするのは、一部の例外をのぞき、人がそれらを好むからではなく、ましてやそれらが幸せをもたらすからでもありません。石器時代におけるそれらの等価物を勝ち得た者こそが私たちの祖先であって、そうでなかった者は生物学的に滅んでいたからです」(226頁)。
内向きキャリア教育のすすめ
このように「人は自分で考えているほど自分を幸福にする手段を分かっていない」という点に正面から光を当てているのが、この本のおもしろいところです。そして本書で述べられているように、自分の動機に忠実であることが幸せをもたらすとは限らないとするならば、児童・生徒の幸福の追求方法についても、少し考え直してみてもいいのかもしれません。
児童・生徒の人生設計を支援するキャリア教育は、まさに幸福を扱うべき教育領域です。しかし多くの学校のキャリア教育カリキュラムの実際のコンテンツを見てみると、さまざまな仕事の内実を知って自分が将来どんな職業につきたいか目標を定め、それに向けて計画的に努力していくのを支援する指導がその中心を占めているように思います。
けれども本書の問題提起を参考に、人の幸福を考えようとするならば、そこには少なくとも次の三つの観点が関係してくるはずであると筆者は考えます。
第一に今後の社会の産業構造や地域環境の変化にどのように対処していくかという環境対応の観点、第二に他者や環境との関係も踏まえ自分自身の幸福の在ありか処をいかに見つけていくかという自己省察の観点、そして第三に、これらの二つを前提として、年齢とともに変化していく自分と社会の関係をどう持続的にかたちづくっていくべきなのか、という関係構築の観点です。
これまでのキャリア教育の力点は圧倒的に第一の観点にありました。しかし、これからの「人生100年時代」には進学・就職・結婚・退職・老後といった、従来標準的とされた人生ステージが通用しなくなり、各年齢段階に応じて多様な社会や仕事との関係をそのつど構築していく必要があることも指摘されています。
とするならば、職業選択と仕事のなかでの成長・発展を考える「外向き」のキャリア教育のみではなく、仕事や社会と自分自身の関係を考えたうえで自分の生の充実につながっていくのかを問う視点をもっと充実させておく必要があるはずです。
夢を追い成功をつかむ支援だけでなく、事が思いどおりにいかない状況もそれなりに楽しみ、それをきっかけに自分自身をも変えていく「可変性獲得」の支援です。
この本のなかでは、自分を相対化してみるための手段としてマインドフルネス瞑想が勧められています(229頁)が、自分自身を知る教育は、今年度から活用の始まっている「キャリア・パスポート」の工夫をはじめ、学校内で行われる活動を通して実現可能です。
児童・生徒が自分自身という新たなフロンティアを探究してみるように支援することもまた、対話的な学びの一つであると筆者は考えるのですが、いかがでしょうか?
(本稿は2018年度より雑誌『教職研修』誌上で連載された、同名の連載記事を一部加筆修正したものです。)