#26 まじめに遊びを考えよう~ 為末大『「遊ぶ」が勝ち』より~|学校づくりのスパイス
2020年以降の新型コロナウイルス感染拡大の影響で、一昨年度は多くの自治体で休業期間が短縮されたり、ステイホームの影響で登校や、屋外での活動に制約がかかったりといった事態生じました。
子どもの日常が解体されたときにまず話題になったのは学習の遅れです。教育関係者が「夏休みのような長期休業がなくなるのは残念だけど、児童・生徒の学習は犠牲にできない」と考えても無理はありません。
けれどもその一方で、「遊び」の喪失についてはとかく見落とされがちです。子どもの成長にとっては、学校のシステムから自由になる時間も学習に劣らぬ意味があり、この問題については両にらみで検討する必要があるのではないかと筆者は考えています。
今回は世界陸上選手権で2度の銅メダルを勝ち取った為末大氏の『「遊ぶ」が勝ち(新装版)』(中央公論新社、2020年)から、現代における遊びの機能について考えてみたいと思います。
この本は自らの栄光の軌跡を語った、著名人にありがちな本ではなく、人を「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)」と名づけた人類学者ホイジンガの視点を基礎において、アスリートとしての自らの経験に光を当てて再解釈したもので、一種の人体実験録とでも言えるような、とても興味深く考えさせられる内容になっています。
「遊ぶ」アスリート
この本のはじめのほうに次のような回想の記述が出てきます。「オリンピックの選手村ではいろいろな発見があった。日本の選手団の外に出て、外国選手の言葉や雰囲気やノリを見ていると日本人と外国人のものすごい違いが見えてきた。海外の選手たちには、国を背負っているという悲壮感が少なかった。むしろ『楽しんでやっている』ように見えた。その姿は『自分らしくそのまま行きゃいいよ』というノリに近い」(59頁)。
為末氏は中学のときに短距離走で日本新記録を出した後、幾度かの挫折を味わい壁に突き当たったそうです。しかし、それまでの視点を変え、種目や競技スタイルを変えることで自身のスタイルをつくり上げ、陸上競技選手としての活路を見出してきました。そのときの気持ちは次のように記されています。「重要な課題をやり遂げられなかったとしても、別の方法が見つかるだろう。人生は概ね何とかなるものだ。そんな楽観的な発想が、アスリートとしての自分を支えてきたのかもしれない」( 40 頁)。
こうした体験からか、為末氏は「スポーツの根本は遊びである」(152頁)という考え方に至ります。といっても、それが単なる放埒を意味するものでないことは「遊びは真面目に転換し、真面目は遊びに変化する」(79頁)というホイジンガの引用にも明らかです。では為末氏にとっての「遊び」とは何か?
本書の中で引かれているホイジンガの言葉から定義してみましょう。「遊びとは、あるはっきり定められた時間空間の範囲内で行われる自発的な行為もしくは活動である。それは自発的に受け入れた規則に従っている……遊びの目的は行為そのものの中にある」(153頁)。
つまり、私たちの生活を占める特定の目的や報酬から自分を解放される自由な時間のなかで行われる自発的な行為が「遊び」です。
「変身資産」としての遊び
人は遊びます。猿やイルカやクジラなどの知能の高い動物も遊びます。どの生物が遊ぶのかについて筆者は具体的に知っているわけではありませんが、脳が発達するほど遊ぶということは言えそうです。蛇や蛙や昆虫が遊ぶという話は聞いたことがありません。
さて、動物として進化が進むほどに遊ぶようになるということは、遊びに生存競争上のメリットがあることを示唆します。その一つの機能としてよく言われるのは社会性の獲得です。「ままごと遊び」に代表されるように、遊びによって、その後の社会における生存に必要な行動を疑似体験し、そのスキルを学んでいるのだというものです。
しかし、この本を読んでいくと、遊びが生存に果たしているもう一つの重要な機能が見えてきます。為末氏の次の言葉を借りればそれは「余白」としての機能です。
「仕事で経営者と会う機会が多いが、新しいことを生み出す人は『余白』を持っているような気がする。余白とは何かと言えば『遊び』である」(4頁)。
人も人間以外の他の生物も、ある時点での状況に適応しすぎてしまえば、その環境が変動したときに新しい環境に適応することは困難になります。未知の環境にも柔軟に適応していくためには、環境適応からときに目線をずらして、思考や行動のなかに多様性を取り込んでおく必要があります。
「人生100年時代」には、この「余白」の機能がますます重要になってくるはずです。長寿命社会のキャリアを考える際のキーワードとして「変身資産」という言葉を耳にするようになってきました。今後のめまぐるしく変化していく社会では、一つの仕事のスキルだけで生計を維持していくことは困難になる。とすれば社会の変化に対応して自分自身を変えていくための手立てや仕組みを、自らの生活環境のなかにあらかじめ取り込んでおく必要がある、というのがその理由です。
このように「遊び」の働きは今後の時代を生きる子どもの成長には不可欠ですが、その機会は減りつつあります。感染症の拡大のような社会不安はそれに追い打ちをかけるでしょう。しかし上で述べた「遊び」の機能やそれを成り立たせている仕組みを考えるならば、その気になれば学校の活動のなかに「遊び」を取り入れることも不可能ではありません。
逆に児童・生徒が学校の責務からは開放されていたとしても、自分で自分を縛ってしまうことも少なからずあるはずです。本書でも「我が家では、ルールとして一ヶ月に一回の『ノー・インターネット・デー』を設定している」(110頁)と書かれていますが、ネットで中途半端にゲームや動画に費やす時間は、たとえ人から強制はされていなくとも、ここでいう「遊び」から遠いような気もします。学校の常態から離れなければならない現在は、子どもにとっても教員にとっても、「余白」のもつ意味を考えるよいチャンスではないでしょうか?
(本稿は2018年度より雑誌『教職研修』誌上で連載された、同名の連載記事を一部加筆修正したものです。)