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#57 時には問題を「棚上げ」しよう~鈴木まもる『戦争をやめた人たち 1914年のクリスマス休戦』より~|学校づくりのスパイス

 ロシアのウクライナ侵攻から1年半の時間が経ちました。世界にはさまざまな正義があり、思想や信条によって社会に一定の軋轢が生じること自体は仕方のないことだと筆者は考えます。が、そうであればこそ「対立や反目に人がどのように関係すべきか」といった正解のない問題に応えていくことは、学校を含めこれからの社会ではますます重要になってくるはずです。

 今回は、第一次世界大戦中にイギリス軍とドイツ軍の間で起こった実話を描いた鈴木まもる氏の絵本、『戦争をやめた人たち 1914年のクリスマス休戦』(あすなろ書房、2022年)を足がかりにこの問題について考えてみたいと思います。

「棚上げ」解決法

 この物語のあらすじは次のようなものです。物語の舞台は1914年、第一次世界大戦の開戦から5ヵ月後のクリスマスイブのこと。最前線で戦うイギリス軍兵士は、その夜、敵のドイツ軍から音が聞こえてくることに気づきます。耳を澄まして聞いてみると、それはドイツ語で歌われた「きよし このよる」であることがわかりました。それを聞いたイギリス軍の兵士も空に向かってクリスマスの歌を歌ったそうです。

 そうして歌の応酬が何度かあった翌日のクリスマスの日、塹壕から手を振るドイツ人にイギリス軍は気づきます。双方の兵士はおそるおそる塹壕から出て両手を上げながら相手に近寄っていきます。そして国境の鉄条網をはさんで相手と対面して握手をして、写真を見せ合ったり食べ物を分け合ったりした後、両軍の兵士同士は、一緒にサッカーまでしたとのことでした。

 この話は実話だそうです。この話が実証しているのは戦争という極限状態においてさえ、人は相手に対するまなざしを変化させることができる、ということです。

 この本を読んで、筆者は人気バンドSEKAINO OWARIの「ドラゴンナイト」という曲を思い出しました。この曲には、人にはそれぞれ正義があるので争い合うのは仕方ないかもしれないけれど、終わりの来ないような戦いのなかでも特別な夜には休戦して祝杯をあげよう、という意味の歌詞があります。

 問題が複雑であるほどに話し合いだけでは解決策が見つからなくなるということは、世界の紛争を見れば明らかです。そのような問題に出くわした場合、時には問題を棚上げするという解決法は、老若男女を問わず共感できるものであるのではないでしょうか?

鈴木まもる『戦争をやめた人たち 1914年のクリスマス休戦』あすなろ書房

複数のコミュニケーション回路を

 さて、昨今、学校の組織内でも児童・生徒や保護者、地域との間でもギクシャクした関係が増加しているような気がします。社会が複雑化・多様化する一方で、学校が多忙化して教員の視野も狭まり、それぞれの人々がどのような文脈を生きているかが見えにくくなってくるのは、ある意味で仕方のないことであろうとも思います。

 そうしたギクシャクに対しても「棚上げ解決法」はきっと一定の有効性を持つのではないかと考えます。

 ただし、問題を棚上げしようとするのが片方だけであったならこの解決策は成立しません。戦争なら撃たれて終わりかもしれません。そして争いの渦中にある双方が同時に問題を棚上げするということは、そうたやすいことではないはずです。

 たとえ一時的にであれ、双方が同時に問題を棚上げするためには、この物語の「きよし このよる」のように、何らかの共通項や、きっかけが必要です。この歌によって両軍は戦闘時とは違った精神的モードに切り替わったのではないでしょうか?

 この物語が示唆するのは、対立している事案とは別のコミュニケーションが何らかのカタチで成立していることが「棚上げ解決法」のためには必要である、ということです。そして、そのためには人と人とが複数の回路でつながっている必要があります。

 この物語のなかではそれがクリスマスという機会であり、歌やサッカーという共通項でした。

 そんな視点から現在の学校環境を見たときに、ちょっと心配なことがあります。それは親睦会や職員旅行、地域行事など、職務以外の機会で地域社会や他の教員とコミュニケーションを図る機会が急速に減っていることです。とくに2020年のコロナ禍以降はその傾向が顕著になりました。

 これ自体は社会の風潮なので、どうしようもないところもありますが、そのことによって結果的にほかの人々と本務以外の回路でつながる機会は減少し、人と人とのコミュニケーションに厚みが失われていくのではないかと危惧されます。

 人は誰もが複数の現実を生きています。学校では厳格な生徒指導の担当教員も、家庭ではただのダメ親父であったり、スタジアムでは熱烈な野球ファンであったりするはずです。

 だからある環境下では反目し合う関係であっても、別の環境下で出会ったならば意気投合できる、ということも当然あり得ます。一つのコミュニケーション回路しか持たなければ、自分のなかの相手のキャラクター設定は単純化し、他者に対してふくらみのある人間像を抱くことが徐々にむずかしくなっていくのではないでしょうか?

 筆者にはこの本のなかに描かれた次のシーンが印象に残っています。敵方のドイツ軍の塹壕のなかから2本の手がニョキッと伸びて、敵に向けて手をふるシーンです。この一人の兵士の行為がなかったならきっとこの物語は生まれなかったことでしょう。たとえ相互に反目し合い、戦争状態にあったとしても、相手と別の回路でつながってみよう、という意思表示をするという小さな勇気を持ったこと、それがこの物語の始まりでした。

 コロナ禍もほぼ収まりました。この機に乗じて、筆者は今までとは違った人とのつながり方を模索してみようと思っています。皆さんもいかがですか?

【Tips】
▼本のもとのストーリーは動画広告にもなったようです。

(本稿は2018年度より雑誌『教職研修』誌上で連載された、同名の連載記事を一部加筆修正したものです。)

【著者経歴】
武井敦史(たけい・あつし)
 静岡大学教職大学院教授。仕事では主に現職教員のリーダーシップ開発に取り組む。博士(教育学)。専門は教育経営学。日本学術研究会特別研究員、兵庫教育大学准教授、米国サンディエゴ大学、リッチモンド大学客員研究員等を経て現職。著書に『「ならず者」が学校を変える――場を活かした学校づくりのすすめ』(教育開発研究所、2017年)、『地場教育――此処から未来へ』(静岡新聞社、2021年)ほか多数。月刊『教職研修』では2013年度より連載を継続中。

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