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大きなものに抗うことについて(ウサギノヴィッチ)

 どうも、ウサギノヴィッチです。
 
 今日から四回に渡って同人誌の「N.G.T」(ナンバーガールトリビュート)のレビューをしていきたいと思います。
 羊目舎の遠藤ヒツジさんが、リーダーとなり、そにっくなーす、オカワダアキナ、ウサギノヴィッチがナンバーガールの曲をお題として短編を書いた本です。
 発行されたのは去年で、ほぼほぼ完売状態だったのですが、この度ナンバーガールが再結成するという事で再販が決まりました。
 
 そうです、この数回のノートは宣伝です。
 
 それでは一発目言ってみましょう!
 
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「真昼間ガール、もしくは、ほんとうのなまえを知らないすべてのおんなのこたちへ」
             そにっくなーす
 
 人は生まれてきてから心や体などパーソナリティなことは決められない。名前もそうだ。
 名前は無意識に自分として受け入れている。できることなら名前を変えたいと思ったことがあると言う人も少なくはないだろう。どんなに親が苦心して付けた名前だとしても、その願い虚しく別の方向へと子供は成長して行く。
 僕の場合は小説の登場人物の名前でさえ考え混んでしまう。
 時々思うのだが、名前なんて記号なのかもしれないと。それは小説の世界だけである。現実世界においてはそれは違う。名前には人格が宿っているからだ。ただ、やっぱり、自分の名前を重荷に思ってしまっている人もいるだろう。
 この物語の主人公には、それがあった。だから作中には本名が出てこない。それくらい嫌いらしい。ただそれで親を恨んだりしていないのが大人というか、しっかりしたところなんだし自分の名前を一生背負っていくつもりのある覚悟があることが読み取れる。
 主人公はシンガーソングライターでそこでは芸名をつか使っている。そこで呼ばれる名前を気に入っているらしい。
 でも、芸名の自分であったとしても、パーソナリティは変わらず、人との交流をあまり求めていないようだ。
 早いが、結論として人は名前を変えたくらいでは性格は変わらない。
 ただ、ライブの終わりに同じ日に出演していたベーシストにナンパされる。そのベーシストには彼女がいるようで完全に浮気だった。
 そのときに彼女は昔のことを思い出す.......。
 
 そこから先は是非とも買って読んで欲しいのだが、僕は「名前」という一生ともにするもに対して抗うことについて考えてみたいと思った。
「たかが名前じゃん」
 という簡単な話には決してならない。ただ、僕はどこか自分の名前に白状というか、無責任なところがある。
 僕の名前は「ウサギノヴィッチ」だが、それは好きな劇作家からインスパイアされてとって付けた名前だ。ただ、今年に入って名前を変えたいなぁなんてことを考えていた。それは古い名前を捨てて新しい自分に生まれ変わりたいという願望があったからだ。それはペンネームとかが使えるクリエイターのみに与えられた特権だろう。ただ、せっかくここまで自分の名前でやってきて捨ててしまうのは、なにか違う気がするとも思った。それは、自分で付けたペンネームに自分の人格が乗り移っているのだと思う。一体化しているのである。
 純文学の新人賞に応募するときに人に言われたのだが、「さすがにウサギノヴィッチはきついでしょ」とダメだしにも似たようなことを言われた。それから新人賞に出すときの新人賞は「自分本名の苗字プラス一文字」みたいな縛りにしているが、全然しっくり来ない。文芸誌の新人賞の予選通過者の名前を見ると二三人はちょっと変わった名前がいるから、ワンチャン自分の名前もいけるのではないのであろうかと思ってしまう。
 
 先にも書いたがどこかで、自分は名前を軽視しながらも、どこかで重視している。
「名は体を表す」
 それは本当のことなのかもしれない。
 嫌いな名前から必死に逃げることは、自分の過去から逃げて、運命からも逃げ出す。しかし、結果はなにも残らない。なにも変わらない。それはツイッターのアカウントの名前を変えてもなにも変わらないのと同義だと思う。
 
 一言僕は、この作品は好きです。直前に書いた通り、名前から逃げることによって自己否定し、過去から、運命から逃げ出す。この物語は非常に深みのある作品だと思う。(上からですみません)でも、好きだと言うことは本当だ。
 

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