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過去に寄り添いながら(ウサギノヴィッチ)
どうも、ウサギノヴィッチです。
今日は長編が読み終わったので、その本について語りたいと思います。
朝吹真理子の『TIMELESS』です。
ある恋愛感情も性関係もないカップルが結婚して、「交配」して妊娠するまでが第一部。
第二部が、その「交配」によって生まれた子供の話。父は子供の前からは逃げるように消えてしまって母一人で育てている
ざっくり言ってしまえばこうなるが、実際はウミとアミの過去に遡ったり、現在になったり、その子供のアオと異母姉弟の過去の話になったりと時代が行ったり来たりする。
カットバックばかりで飽きてしまうかと思いきや意外にそうでもなく、作家の豊かな語彙力で新鮮な感じで読める。
この小説で思ったことは、直感的な感想は、結局好きあった同士じゃない子供を産んでも、幸せになれないこと。それは子供産むと言うことにたいして短絡的で、無責任なことだと思った。小説内では、どうにか二人が普通のカップルとして振る舞うような努力していると書いてる。普通にしていれば書かないことである。それをあえて書くことは、それはやっぱり二人は好きではないのではないというのが分かる。心は通じあっていると二人は信じている。それは伝わってくる。ただ、根本的な部分がダメなので、関係が破綻みたいな形を取ってしまったのではないだろうか。
この小説の不思議なところは、カットバックで出てくる過去の記憶を登場人物同士が共有しているように錯覚してしまうことだ。
だから、登場人物たちの関係は強固な感じする。前に書いたこととは矛盾をしてしまうのは、わかっている。ただ、過去の話が別の場面でちょっと出たときにもう一人の方も了解をしている。不思議な関係だと思ってしまう。そこに愛があるとかじゃなくて、家族みたいな親密なより高次元な関係なものがあるように思える。
僕は過去を捨てて生きている節がある。それはたとえだ。ただ、思い出さないようにしているし、意識しないようにしている。過去自分を超えるように今の自分をどうにかやりくりしている。過去にも書いたが、小説は一回書いたら、次に書いたことを覚えていない。少しずつでもいいからアップデートしようともがき足掻いている。だからかもしれないけど、前に書いた書き方で同じようには書けない。読者からは同じように読めるかもしれないが。このノートも毎回新しい気持ちで書いている。だから、最初の方と書き方が違っていると思う。それが成長なら嬉しいのだが。
過去をないものにするのは、良くないと人に言われるときがある。今の自分はその過去の積み重ねで出来上がっていることを認識するようにとちょっと説教地味たことを言われる。それはそれで納得できるのだが、これは自惚れだが、地がどこかで良いと思ってしまっている。だから、「今」しか見えてなくて、過去は見ないで、常に未来の方角を見ている。
それが頭の悪い考えなのかもしれない。
今、僕は恥ずかしいことを書いているのは、重々承知している。
これは認識していて、それを少しずつでも直そうとしていることだ。
自分はあまり「努力」という言葉は、好きではないし、経験が結果に繋がるというのも半信半疑だが、それに反して厚顔無恥のようにどんどんと小説やノートなど新しいものは出していく。それが「努力」というならそうなのかもしれないが、僕にとってはごく自然で日常的なことをやっているのだ。
それを偉そうに言ってしまう自分もバカっぽいが。
でも、自分は何かしてないと落ち着かない人間なのは間違いない。だから、このように毎日レビューをあげているのだ。