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うつと筋トレ〜日本一あかるい鬱日記〜#7 腹筋とドーパミン

「あの薬、頭がシャッキリするでしょ?」
電子カルテを打ち込みながら、担当医が言った。

私は彼女の横顔を見つめながら
(親父が覚醒剤つかってた時、似たようなことを言ってたな)
と、昔のことを思い出していた。
親父がオーバードーズしないように、それを学習机に隠して宿題してたっけ。懐かしい。わけがない。

それにしても、その薬は効いた。怖いくらい効いた。
うつ症状に苦しんでいた先週の自分からすれば、脳を丸洗いしたような感覚。
めまい、情緒不安、過換気などが一掃され、身体まで軽く感じる。少なくとも、娘を抱き上げる力は戻ってきた。
「あの薬なんですか?」

先生は椅子を大きく回転させて、私に向き直った。
「エビリファイといいます。少し前まで世界で一番売れていた精神病の薬なんですよ」
細くて長い人差し指が、ピンと立つ。世界売上No.1!心を病んだ人この指とまれ!ウインクしそうな笑顔だった。

診断が見事に的中した先生は、得意げに続ける。
「脳神経ってあるでしょ。その刺激を伝える物質を調整するんです。ドーパミンですね。飲んですぐ効果が出る。ソッコーです」
即効なのか、速攻なのか。たぶん両方なのだろう。彼女が拳をグッと握った。

「草冠さんがこれまで飲んでいた薬はミルタザビン、トフラニール、ロラゼパム、リフレックスですよね」
欧州サッカーの選手名ですか?記憶にない薬名ばかりだった。脳機能が低下しきった私が覚えられるわけがない。

「けっこう強めのうつの薬も入ってたりするんですけど、効かなかった、と。なのでアプローチを変えました」
先生はマイナンバーに登録されていた服薬履歴から推察し、処方の発想を変えたのだとハイテンションでまくし立てた。
処方にも発想が求められるのだと、初めて知る。

さらに。
話によれば、私がこれまで通っていた病院からは、効果が真逆の薬が一緒に出されていたらしい。気分を良くし、意欲を高める効果があります。気分を落ち着かせる効果があります。
前の病院の処方が間違っていたのではなく、それだけ脳は矛盾をはらんでいて、コントロールが難しいということだ。
「抗うつ剤は基本的に、55%程度の人にしか効かないといわれています」
私はなにごとも、多数派に入れた試しがない。

私は両膝に手をつき、背筋を伸ばして頭を下げた。
「先生ありがとうございます。ほんとに助かりました」
診察椅子で土下座したい気持ちだった。

先生が手のひらをこちらに向ける。制止のジェスチャー。
茶色い目が、私の目をまっすぐ見据える。やや芝居がかって、ゆっくり語りだした。
「とはいえ。薬は、治すものでは、ありません。
生活を立て直すためにあります。
草冠さんは耐性体質かもしれません。
飲み続けなくていいように、
早めに対策を立てないとです。
草冠さんの場合は、ドーパミンです」

つまり耐性ができてしまう前に、できるだけ早く、ドーパミンがちゃんと出る体質に変えろ、ということだ。
全身から再び力が抜ける。俺は、まだ頑張らないといけないのか。
国境の長いトンネルを抜けても、まだトンネルだった。

しかしそこは、さすがのエビリファイ。ケミカルにシャッキリしつつある頭に、一つの謎が浮かんだ。
そもそも、なぜ私はドーパミンが出なくなったのか。
「ストレスとお酒はドーパミンの分泌を妨げます」
謎でもなんでもなかった。どちらも心当たりがあります。

「ドーパミンって、走るとか歩くとかの運動をすると分泌されるんですね。リモートワークで外出が減ったことも影響しているかもしれません」
こちらもズバリ。だとすると体質改善も数年がかりか。

「私、筋トレはできてたんですが」
先生の目線が、私の胸と肩の輪郭をなぞった。
「無酸素運動はアドレナリンです。トレーニングの後、イライラすることないですか?」
図星が止まらない。娘の声をうるさく感じてしまう自分が嫌で、自宅でのトレーニングを控えていた。

先生、ハットトリック達成。どんな人生を送ると、ここまで人を見抜くようになれるのか。
私は丸裸にされたような空寒さに、ブルっとした。

「繰り返しになりますが、ドーパミンはランニングとかウォーキングとかの有酸素運動です。コスパがいいのはランニングですかね。運動した後、頭がスッキリするでしょう?アレです」

一瞬の沈黙。

先生が拍子抜けした表情で「あれ?違うんですか?」と問いかけてくる。
私は、つとめて無表情に打ち明けた。
「スポーツの後にスッキリしたことなんて、ないです」
見てわかりませんか?この弥生土器のような体型を。

運動歴だけは、なんやかんやで長い。3歳のスイミング教室から始まり、今でもトレーニングは続けている。ほぼ惰性で休み休みではあるけれど、足がけ40年といったところか。三つ子の魂四十五まで。習慣ってオソロシイ。

しかし、脂肪率が20%を切ったことがないのだ。豚が15%程度と知って、愕然とした思春期。
大人になってからも、新宿二丁目で木樵(きこり)的な店員としてスカウトされたことがある。
筋金入りのぽっちゃり体型。なんとも皮肉なフレーズだ。

だから走るのは、苦手中の苦手。ドタドタ走り、グラグラ曲がり、すぐに脇腹が痛くなる。
柔道部にいた中学3年間、毎朝走り込みを続けたが、1,500mのベストタイムは8分台。チワワのダッシュにも負ける。

スッキリするなんて、スポーツに熱中できるヤツだけだろ?
私には、そんなこと一度もなかった。ただの一度も。
家族問題が尽きなかった自分にとって、運動中も悩みの時間だった。体も心も、泣きたいほど重い。
いつしかそれが習い性になった。家族問題が仕事問題にすり替わった今も変わっていなかった。

私の表情から察したのか、先生がうなづきながら言った。
「大丈夫。走ることが目的ではないんです。目的はドーパミンを出すことです。なのでドライブ感というか、スピードに乗る感じを楽しんでみてください」

そしてニヤリと言った。
「BMIも落ちて一石二鳥ですよ」
やっぱり先生も、こぶとりおじさんっ思ってたんじゃん!ルッキズム反対!

オホホとおどけた顔を、先生は真顔に戻した。
「薬が効いている今のうちに生活を軌道に戻せたら、そのあと繰り返さないようにするのは、薬ではなく草冠さんです。家族も仕事も変えられないなら、あなたが変わるしかありません」

説明から説諭へ、草冠さんからあなたへ。病んだ人間には迫らないであろう覚悟。
有無を言わせない口調が、私が患者を脱しつつあることを教えてくれていた。今スタートラインに立っているのだと。

生まれてこの方、自分の腹筋を見たことがない。一生に一度くらい、拝んでみたい気持ちはある。
私にとって腹筋は、富士のご来光やメッカみたいなものか。そんなこと言うと、なんだかバチが当たりそうだけど。

身長174cm、体重77.5kg、体脂肪率24.6%。そして抗精神病薬。
生きづらさは変えられないが、体質は変えられる。過去と未来に似ていた。気づくの遅い。

腹筋とドーパミン。
薬局で処方を待っている間に、私はランニングアプリをスマホに入れた。


(終わり)

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