点でみる、線でみる
休みの日は寝てばかりのインドア派、くるねです。
思考のクセというものは、誰しも存在しそれぞれに歪みをもって人間と成している。正論だけで語れるものだけではなく、なにかしらの歪みがあるんだろう。
わたしの思考のクセは、物事をー線ーでなんでも結んでしまうというものだ。
その人は本当に“今も”イヤな人間で、わたしをおびやかす存在なのだろうか?
人と長く関わっていると、その人の良くも悪くもみることになるだろう。人間は悪いところもあって愛おしいと思う一方で、やはり憎んでしまうところもある。
人と関わる経験というものは、いい人に関しても自分にとって苦手なひとも条件を作ってしまう。経験則というものはそういうものだし、人間の危機管理能力の賜物なのだろう。
特にわたしの場合は、行く先々の学校で敵を作ってたもんだからそのような人の条件づけによって、本能的に避けている。
そして仲違いした人はいつまで経っても苦手だし、心臓がドキッとする。若いときの苦手がー線ーとなって続いてわたしの感覚を狂わせる。
ただその色眼鏡をつけてしまえば、苦手な人は苦手なままだし、いつまでたっても心臓が嫌がってしまう。お人好しになる必要はないが、世界を狭めるようなことはしたくないのだ。
だから、ー線ーではなく、点・でみることにしたのだ。
その瞬間、その人をそのときの状態をみる。
色眼鏡は使わずに裸眼で見る。
昔あったあれこれも、所詮昔のことだ。
わたしもあの頃から変わったところもある、それなら相手だって変わったところがあるのかもしれない。
この考え方は仕事にも有効らしい。
ひとつの病名、ひとつの疾患でくくりすぎてやしないかい?
理学療法士をしていて、かつ訪問リハビリをしていると、どうしてもー線ーで捉えたくなる。
この疾患はこうだっただとかの経験則はもちろん大事だが、その疾患でくくってしまうとみえなくなることもある。
疾患や病気という名前でくくられていようと、あくまでその人はその人だ。ひとりひとりのことを見て初めてわかることもある。ー線ーで繋ぎつつも、点・としてその人としてみれるようになりたい。
あくまでも理想論、それでもイヤならそれでいい
まあそれでも苦手なら苦手でいい。
にんげんだもの、そのくらいの歪みがあるから愛おしいのだ。
では、またね
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