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悲しみを出し切る
通院のハードル
「明日は病院だ」。
これはいつものこと。でも数年前5年前10年前とは意味が全く違う。
「明日は病院か…💦」
そう思っていた。初回こそ親に送り迎えをしてもらっていたが基本的に体調が最悪の中自分で電車で行かなければならない。駅まで歩かないといけない。雨の日も風の日も暑いも寒い日も。特に雨の日はキツかった。私は感覚過敏の中に確実に水気が入っている。顔を洗うのも苦手だ。服を濡らさないようにするのが下手だから説が有力候補だ。
帰りの電車では喋りすぎてぐったりして、その内容を反芻して悲しくなり1人で泣くこともよくあった。
診察室で元気になってしまう
過剰適応なので病状を隅から隅までキチンも伝えなければお金の無駄遣いだと思っていた。そのくせ肝心な症状は何一つ伝えず(たとえば寝られてますか?に本当は全く寝られていないのに「まあぼちぼち!(笑)」などとピエロになってしまう癖があった。深刻なことは特に話さず明るくベラベラと、制されるまで30分でも話す私に主治医はこう感じただろう。この子はまあ大丈夫だろう、軽い鬱だ(※実際は軽躁を起こしている双極際障害二型であることがのちに発覚する。そして早すぎる発達障害の告知と実際より軽い障害年金の診断書の内容へとつながっていく)。そして抗うつ剤が処方される。それは双極性障害を悪化させる。躁転させやすくするのだ。
どうせ信じてもらえない
それには理由があって、父は私の発言をとりあえず否定から入る癖がある。父からすればただ口ぐせかも知れない。「そんなことないやろ」「いやいや」「違う違う」言葉通りとらえるASDのこどもと適当なことを言うADHDの親の相性は最悪だ。2人は仲は良かったが、私がずっと傷ついていた。そんな彼に否定され続けたため私は本音を言わなくなった。眠れてますか?には眠れてます!以外答えてはいけないと思っていたのだった。
ただ待合室にいることがしんどかった
私は毎回毎回、ヘロヘロになりながら自転車か歩きで駅に向かい、電車でパニックが起こらないように祈りながら電車に乗り、そして着いたら待合室で隣の人に話しかけられれば過剰適応なので身を削って話しに応じ、うるさい人がいても我慢し、寝転びたくても座って待ち、中身の薄い誤解満載の長話をし、間違った処方をされ、お金を払って帰ってきていたのだ。10年以上も。
電話とキャンセル両方苦手
明日はその病院とはもう異なる転院先の病院だ。朝起きることができない心配は今の私にはもうない。起きられる。準備もできる。玄関でへたり込んでやっぱりいけない…となんとか苦手なキャンセルの電話をした後1人で泣くこともない。地元のたった一駅二駅、たった近所の駅がこんなに近かったことを思い出す最近である。
家族を許して前へ進みたい
家族には経済的には感謝しかないし、精神的心理的にはもう仕方なかったと思うことにしようと決心し、でもできずに今もがいている。
命の危機を感じた数々の発言を私自身が許さないことには私が前に進めないと助言してもらったのだ。彼らが謝るのではなく、私が、あの時あの時代あの状況で理解を得られるのは不可能でそれはつまり的外れなアドバイスや叱責、叱咤激励をうけて私の体調が夜怒られたら次の日の夕方まで引きずるほどの胸が張り裂けるほどの苦痛であったとしても許さなければいけない時が来たということだ。
仕方なかった。
あきらめる。(←これは類語として他の人に諭された)
私も、家族も、つらかったよね。
つらかった。つらかったよね。
家の中に味方がいない。ばかにされる。
ADHD(仮)で自分は過敏、人には鈍感な、父
「本当にこいつはどうしてこうなんだろうなぁ」とあきれられる。
大学を6年かけて命がけで卒業した後無理やり自分の夢を話させられる。話す。ばかにされる。
相手の気持ちなんて考えてない。心配もしてない。不安を押し付けてるだけだ。
それに気づいてない。
「相手の気持ちを考えることが一番大事だぞ」と言い、黙りをきめこむ私(当たり前)に向かってため息をつく。
本当にしんどいのに夕食の時過剰適応で元気そうに返事してしまうから元気だと勘違いされて、「なんで働かないんだ?いろんな方法があるぞ、なんでもやってみたらできてくるもんだ」とか昭和のドラマみたいなこと聞かれたね。今元気そうにしてるけど普段は朝と昼は辛いんだよと言えば夜働けばと言われ。まずは「大丈夫?」じゃないのか?そして夜もしんどいよ。ものすごく。比較的楽なだけでパニックを頻繁に起こしていたよ。あんたらに対する緊張のせいだよ。
ではなぜ元気がなさそうにしないのかというと、「形だけでも胸を張って明るくしてればそのうち元気になるぞ」とアドラーの丸パクリアドバイスをされるからである。そして私も人が唯一いる夜につい嬉しくなり表情が自然と明るくなってしまうのだ。犬の世話だってするしその様子を見て勝手に元気だと彼らの親フィルターを通してそのように見えていたのだ。推測に過ぎないが親は子供が辛いという事実に目を背けやすいのだと思う
そしてもう一つ大事なことは、私はちょうどよくしんどい顔というのができない。ASD、自閉症スペクトラム障害だとただでさえ場に沿った表情が下手だ。夕ご飯の間ずっとんな複雑な表情をするのは無理だし、途中で焼酎呑みながら「なんでそんなボソボソ小さい声で話すねん!そんなんやから余計しんどくなるんや。大きい声出るやろ?(威圧)」と言われるに決まってる。そこまで言われて小さい声を突き通す自我があの時の私にはまだなかった。まだまだ親に言いなりになる反抗期中の中学生ようなものだった。発達障害のひとは実年齢の70%くらいと言われている。まさにそんなくらいだった。だが状況は大人だ。親も、子も、辛い。
でも感謝もしてるんだよ。食べさせてもらって。外部の人にもそう言われるし、…とは言え「優しいお父さんとお母さんと住めてうらやましいじゃない」と言われるともやもや。両親は外面はいいけど中では外で言わないような雑なこと言うんだよ。暴力的なこと言わないけど失礼なこと、セクハラ、ふざけないで欲しい場面でのおふざけ、無視。キリがないよ。
人と比べてばかりで現実の自分から目を背けてた
つらかった。つらかった。つらかった。
みんな結婚してった。仕事辞めてった。私も仕事したかった。若いOLでチヤホヤされたかった。子供生まれてく。
つらかった。だんだん辛くなくなった。彼女たちを同級生と思わなくなった。元同級生のいい子たち。
でも家にいるのはつらかった。両親まだ働いてるから家事任されてた。助かるわと言われて苦笑いで「これくらいやるよ」と言った。「笑顔で自分ができることをすることがいいことだ」と本で読んだから。でもそれは私の「できること」を超えていたんだよな。私よくいうんだけど、それは謙虚じゃなくて傲慢なんだ。
「やらなきゃいけないこと」と「できること」が一致するとは限らない。でも食べさせてもらってるから断れなかったし、一度反抗してみたらとても機嫌を悪くされた。「『できないことはしなくていい、やるから』と言ったのに口だけ人間だ。
本当は限界だった。私には強迫性神経障害があった。いつも気忙しい、落ち着かない、追い詰められている、ナイフを突きつけられているかのやうな緊張感がする病気だ。大学受験を機になってしまった。診断を受けたことはないが(それが当たり前だから診察室で話さなかったのかもしれない)それは15年たった現在も続いている。特に最初の10年が酷かった。
私がもし死にたいと言っていたらその理由の8割はそれだ。当たり前だ。そんな精神状態で眠れるわけがない。極度の不眠の大きな原因である人間は七日間完全に起きていれば死ぬ。私はそれにほど近い生活を送っていた。居眠りや強い薬で一日中眠るなどでなんとかしないでいたがあれから15年間、夜になって自然になられたことは一度もない。一度あるが途中の中途半端なところで起きて薬の飲み忘れを悔いて大泣きした。飲まなきゃいけないのに。
物心ついた頃から祖母に「丑三つ時怖い」と言ったそうだ。
特に夜の丑三つ時と言って2時半ごろに起きてしまうのが特に怖かった。多分不安神経症もあったのだ。みんな寝ていて助けを求められない。朝までも長い。一度両親の寝室に勇気を持って助けを求めに行ったことがあった。眠いので無理ですという対応だった。当たり前とも言える。20歳の娘が眠れないよといわれても50代の親も困るだろう。
死ぬほど辛かったよね。がんばったね。
前に1日の漫量の頓服薬ソラナックスをかのんだね。効かなかったね。夜なのに震える声で友達に電話したね。過呼吸(過喚起症候群)にも毎晩なったね。心臓が痛いよ。怖いよ。寝られないよと一階におりていったらお願いだから1人にしてと言われたね。私昼も夜もずっとつきまとってたもんね。不安で不安で。それは鬱の症状だと後で一番最初の主治医にきくことになるけど。お母さんの膝になる青年もいるらしい。私も夫婦の一日旅行について行って父に怒られたこともある。
でもどうしようもなかったんだ。
おばあちゃんの前で「なんでわかってくれないの好きな人できたのになんで喜んでくれないの」と号泣したことも(←これに関しては全く覚えてもない)(おばあちゃんとしては勉学に集中して欲しかったと思うと後で母から聴いた)
幻の20代
こないだ写真断捨離した。わたし綺麗。若い。
笑顔?うそ。私しんどかった。この若い時にもっともっともっと心からの絵がで楽しみたかった。難波梅田今はもう新しくなってないあの梅田に行きたかった!大好きなカラオケもしんどくなく歌いたかった!
2006〜2016はもう戻ってこない。
悲しい。悲しい。悔しい。憎い。勉強さえしてればいいと言った中高の教師が憎い。すぐに自閉症スペクトラムと診断しなかった医者が憎い。母は気づいていたのに。悔しい。悔しい。かなしい。腹立たしい。時間を返して欲しい。
今私が怖い呪い妖怪みたいになってるこの状況を解決して欲しい。
わたしは何もしてないのに。
ただ言われた通りに生きてただけなのに。あんなに頑張ったのに。ラクロス部入りたかったのに。再履修ばかりで知らない年下の子たちと授業中受けるの寂しかったよ。日独電子辞書盗まれて「見つけたらここに連絡ください」の黒板の電話番号に落書きされてたのもとても悲しいし腹が立った。悔しかったよ。代わりにドイツ人のセンセが紙の辞書くれて一緒に怒ってくれたのうれしかったよ。そんな感情も全て今初めて感じてる。自閉症スペクトラム障害だから感情感じるのが遅いんだよね、体調も悪かったし。
同じ大学の学生なのに…
大学の坂道暑かった。しんどかったよ。「あついなー」、「まじだるいー」の声にいちいちイライラしてたよ。私ほどではないくせに。サークルとバイトと授業とインターン楽しんでよく寝てるくせに。
事務作業ばかりしていた大学時代と優しさに包まれていた病人時代
先生に頭下げて特別扱いのレポートで単位もらったことたくさんあった。これは特別措置ですよ。はい申し訳ありません。保健センターに通ってうんうん、となんでも肯定してくれるカウンセラーの先生。今何してるかな。何も変わらなかった。6年通ったけど。
青春のスクリーンが繰り広げられてる中で1人だけ体調不良で端っこでさめたBBQを食べていた。味なんかしない。実際味覚障害と拒食症でガリガリだった。寝てないのだから当然だ。それに気づいてくれた研究室のみんなが食べてないでしょと言って食べ物を何かくれた。それから私が行きたい行きたいうるさく言ってたカラオケオール連れてくれて町の温泉も連れてもらった。鏡に映る姿はガリガリだった。そこまでしてもらってもことはうまくは進まなかった。研究室で大泣きしたりとか、関連性はんからないけどその次の日に教授が辛い内容の文章発表したり。後輩の男の子全員に順番に口説いたりもうめちゃくちゃだった。(私は特にモテる女子ではない)
境界性人格障害とマザコン
その頃ずっと何年も前かは忘れたけど母に「あなたは境界性人格障害だと思う」と言われて「(あなたにだけは言われたくないな)」と思ったのにもかかわらず身体は自分に優しくしてくれる男友達に「私は境界性人格障害だったよ。ごめんね」みたいなメールを送っていた。もうホラーすぎる。母に表面的には反抗しながら、言われた通りにしてしまうのは今も完全には治っていない。父も弟も同様だ。
本当に寝てないとだんだん気がおかしくなります(舌がぺろっと出てきたり)
みんな寝てないと言っても頭の中で想像する「寝てなささ」はかなり甘い。そんなんじゃない。本当に寝てないのだ。でも若いから生きのこった。きっと寿命はすごく縮んだと思う。これから楽しいことをふやしてのばすしかない。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、
もう私しか覚えてない黒歴史
もっと楽しみたかった。あの飲み会最後まで出たかった。幹事もやりきりたかった(途中で潰れた)後輩の子にドン引きれたくなかった。私は本当はこんな変な人間なんかじゃないのに。こんなことする人間じゃないのに。
アイデンティティの崩壊
でももうピエロを演じる他ない。悲しい。悔しい。悲しい。恥ずかしい。わたしは賢くてテキパキした人だったのに。いつのまにかふにゃふにゃしゃべる病弱でたまに訳のわからないことを言う人の話聞いてない人というキャラクターになってしまった。
テキパキな人のままであの賢い人たちと(国立大卒)もっともっと話したいことがたくさんあった。あの日あの時あと30分あそこにいて深い話を聴いていたかった。
迷惑をかけたくなかった。
うざがられたくなかった。
変な人だと思われたくなかった。
100%自力で卒論も書きたかった。
健康でもそこそこ痛い大学生だったのかもな
くやしい。くやしい。母はいう「そんなに大学行きたかったらまた行ったらいい」
違うんだよ。母、ありがとう。
そういうことじゃないんだ。
あの時わたしの心に開いた穴はそれでは埋まらないんだ。
同じくらいの歳の人と少し年上の人とで将来を語り合うところだよ(院から勉強する大人の人もとても素敵だと思います)
わたしには将来を真剣に考える余地もなかったよ。食べ物が好きという理由で食品大手の説明会行ったけど、もって行った紙、一目みてポイされたの覚えてる。だって得意分野は?て課題に「家事」てイラスト付きで書いたんだよ。そういう大学生だったのわたしは。
F二精油の説明会行くのに渡った踏切まだ覚えてるなぁ。なんか田舎だった。そういうわたしの膨大な記憶、うん。なのはな。
ちょっと親への恨みの話と大学の話と混ざっちゃった。時期も近いしね。
今日はこんなところで。