図書館のようなバー(Barらくご・前編)
「おお、いらっしゃいませ」「あ、よろしくお願いします」
西岡信二は、一緒に来たニコール・サントスと共に、姉マリエルの夫が経営している小さなバーに並ぶカウンター席のうち、一番奥の席に並んで座った。やや照明の薄暗い店内。カウンター越しに目の前にいるのが、マスターの小田切康夫だ。店内はカウンター席が8席ほどあり、その後ろに2人掛けの丸テーブル席がふたつ。予備の椅子を入れても、15人入れば満席になるような小さな店であった。「ようこそ、西岡君。今日はデートかな」
信二はまんざらでもないように、笑顔で頷く。ニコールも笑顔で「今日は、義兄さんの落語を聞きに来ました」と答えた。
「ああ、そうだった。いやあこんな大げさになっちゃうとはね。もうすぐ来る常連の篠原さんに、この前ジョニ黒をタイトルにした落語披露したら、また聞きたいと言われてね」とクールに返事をしながらも、少し嬉しそうな康夫。
「バーを経営しながら落語ってすごいですね」と信二。「全然大したこと無いよ」と言いながら、後に置いてあったドリンクメニューを、カウンターの前に出す。
「お客さんを10人近く連れて来るって言うから、今日は貸切になったんだ。
おかげで本格的な落語会になってしまった。もう必死で新ネタ覚えたよ。だからひとりじゃ不安ということで、西岡君とニコールちゃんに来てもらったってわけさ。あとでマリエルも来てくれる。さて何飲む。なんでもいいよ。1杯ずつおごるから」
メニューを眺める信二とニコール。メニューを一通り眺めると、顔を上げたニコール。すると意外なことを言う。
「で、義兄さんは芸名とかあるんですか?」「え??」
「例えば、三遊亭とかそういうやつ」「あ、いや単なる素人だからそんなのないよ」とやや顔をひきつらせながら否定する康夫。「何で?」と、ニコールは食い下がる。
「でも今日は落語会でしょ。やっぱり芸名つけましょう」と信二も顔を上げると表情がやけに嬉しそう。「よ、弱ったなあ」「せっかくだからフィリピンぽいのがいいわ。さて」ニコールもノリノリで考え出す。「今ひらめきました」先に信二が思いつく。「フィリピンなら呂宋家とかどうですか?」「ル・ルソンや??」
戸惑って思わず声が裏返る康夫の前で信二は嬉しそうに笑いをこらえる。「じゃあ後は私がつけました」そう言ってニコールは、スマホの画面を見せる「真仁羅!」「そうマニラ。だから芸名は『呂宋家真仁羅(ルソンヤマニラ)』で決まり」
やけに嬉しそうな信二とニコールの前に、断わるわけにもいかない。「わ、わかった。まあお遊びだから、おふたりの名前で行きましょう。だからドリンクを!」
ここで信二は「スタウト」を注文。しばらくしてニコールは「IPA」と注文した。「お、ふたりともビール」
「え、ニコールIPAって何」「あ、信二さん知りませんでした?インディアペールエールのこと」「うん、初めてかも」
その前で康夫が取り出したのは、IPAの小瓶とスタウトのロング缶。どちらも海外のものである。「IPAは、多分クラフトビールカフェ店長のニコールちゃんの方が詳しいな。俺は黙っておく」と康夫は黙ってドリンクにビールを注ぐ。先に注いだのはスタウトの缶。プルを開けて大きめのグラスに8割ほど注ぐ。すると茶色い液体が出て来るが、それが上昇するように波打っている。
「ニコールの店で飲むギネスと同じだ。じゃなかった。そのIPAってなんだよ」
「ああ、インディアペールエールよ。これはインドが英国領になったときに、本国からエールビールをインドに運ぼうとしたらしいけど、赤道近くを通る長距離の運搬でダメになる。だから普通より多めにホップを入れて送ったの。ホップは防腐作用があったから」
「へえ、今のように冷蔵や冷凍があればこんな苦労する必要なかったのに」「でも、おかげで苦いエールビールが出来上がった。これ私好きなのよね」
ここでIPAが先に完成。スタウトは気がついたら、先ほど波打っていた泡と液本体が分離している。残されたスタウトをゆっくりと注ぎ、ちょうど表面張力ギリギリまでビールが注がれた。
「はい、お待ちどうさま」「いただきマース」「カンパーイ」との声。ふたりは、ゆっくりと舐めるようにビールを飲む。「いいね。いつも飲むビールと違って、こうチビチビ飲むビールも」「今日は仕事じゃないから気軽だわ」
スタウトを口に含むと本業がライターである信二は早速質問した。「このスタウトはどこの国のものですか?」「ああ、アイルランド。ギネスが有名だけど他にもスタウトの会社があるんだ」と、静かに答える康夫。
「アイルランドって、えっとグリーンランドの近くに」「あ、それアイスランド。アイルランドはイギリスのブリテン島の西にある島よ」と横で突っ込むのは、ニコールである。
「ええ、元々このバーを始めたのは、僕がアイリッシュのウイスキーにハマったことなんだ」
「義兄さんそうなんですか?」「ニコールちゃん、そう。マリエルに出会う前。ひとり旅でアイルランドに行って、アイリッシュウイスキーにハマると、その後スコットランドに行ってスコッチウイスキーと続いたんだ。それがきっかけで、日本に戻ったらバーを始めた。ほらこのあたりのボトルは、日本でも珍しい銘柄が多い。向こうのバイヤーと知り合いだから、定期的に個人輸入しているんだ」
康夫はそういって自慢げにカウンター後のボトルを見せる。確かに見たことのないボトルやラベルのウイスキーが並んでいる」
「ジョニ黒もあるね」「ああ、落語のね。そうそうアイルランドに行く前は日本の文化にもハマったことがあって、落語はそのときに、少しかじったんだ。演芸場とかも見に行ったけど。まさかね」と言って頭の後ろを気恥ずかしそうに軽くたたく康夫。
「じゃあ、あそこに並んでいる本はそのときのもの?」とニコールは身体を後ろに向けて腕を伸ばす。テーブル席のさらに奥には本棚があり、無数の本が並んでいる」「お、まるで図書館のようだ」
「今のように電子出版なんかもなかったころだから、本が山のようになったんだ。だから分野は日本文化のものからアイルランドに関することまでバラバラ。だけど、バーをすることになったから、お客さんに読んでもらおうと思って置いてるんだ」
「けっこう読んでいる人います?」信二の質問にうなづく康夫。うちの常連のお客さんひとり客が多いから、静かに気に入った本を読んでいるね」
「ちょっと見ていいですか」「ああどうぞ」
信二はそういうと席を立ち、棚に並んでいる本を眺める。そのうちの何冊かを取っては眺めているのを繰り返す。やがて決まったのか、一冊の本を手にするとカウンター席に戻ってきた」
「これちょっとお借りします」と信二が手にしたのは、世界の温泉というタイトルの写真集。「信二さんらしい。温泉なんて」「うん、一応温泉ライターだから」そう言って信二は本の中にあるページをめくり、台湾やタイの温泉などのページを見開いた。
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するとドアが開く音。ドアの上についている鈴が鳴る。
「いらっしゃい、お待ちしておりました」と少し大きめの康夫の声。
「あ、本日はよろしくお願いします」とは、長い髪を結んでいる常連の女性客篠原。先日ジョニ黒に関する落語を聞いた張本人だ。その後に続くのは篠原と同世代の女性が4・5人。それから同じくらいの人数の男性だ。こちらはやや年配のよう。
「あ、マスターさんですか落語をやられるの」「え、ま、ああ素人ですが」と男性のひとりが声をかけたかと思うと、今度は女性が「それはわかっています。でもバーで、生落語聞けちゃうの楽しみにしてました」と嬉しそう。
「先ほど芸名が決まりました。呂宋家 真仁羅さんです」とニコールが皆に説明する。「なるほどマスターの奥さん、フィリピンの人だもんね」と篠原も他の客もうれしそうにつぶやいた。
康夫はクールな表情を保ちながらも、少し耳の奥から心臓の音が聞こえ始める。「ま、まずドリンクから行きましょう。落語はその後で」と言ってメニューを渡す。しばらくすると各々がいろんなドリンクを注文する。カクテル、ハイボール、ビール、グラスワインなど。そして篠原は今回もジョニ黒のロックを注文した。
康夫は淡々とドリンクを作る。こちらは本業とあって全く問題なく、次々と効率よくドリンクが作られていく。ニコールは心配そうに「私手伝いましょうか」と小声で言うが、康夫は軽く手を出して左右に振り「その必要ない」と断った。
やがて全員のドリンクがカウンター、そしてテーブル席の上に置かれた。ここで一斉に乾杯のあいさつ。一同は自分のペースでドリンクを口の中に浸した。
「では20分後くらいにしましょう」と康夫が提案する。「オッケー」と早くもテンションが高い篠原。他の客と歓談の時間を持つ。
「義兄さん、大丈夫ですか」「う、うん。ニコールちゃん大丈夫。もう少ししたらマリエルも来るから。彼女が来たらぼちぼち始めよう」
ーーー
それから10分後、入口のドアが開く「マリエルさん来ましたね」と信二が言うが、入ってきたのはマリエルではない。濃いめの茶色い和服姿で頭がスキンヘッドの男性である。
それを見た店内一同が一瞬固まった。「誰?」
「あ、あのうお客様。本日実は貸切となっておりまして、申し訳ございません」慌てて男性の前に出る康夫
「ん?知っておる」とスキンヘッドがつぶやく。
「え? こちらのお客様、篠原さんのお連れの方」篠原は慌てて首を横に振る。「まさか西岡君のお知り合い」信二も篠原のまねをするように首を横に振った。
するとそのスキンヘッドが再び口を開く。「マスター殿。ここで落語を披露されると伺ったが」「あ、あ、え?なぜ」康夫はなぜ始めて見るこの人物が今日の落語会のことを知っているのか。
「まさかマリエルが余計なことをネットに書きこんだのか?」
再び口を開くスキンヘッド。「まず私が何者であるか自己紹介しよう。私はこういうものである」そう言って名刺を康夫に手渡す。康夫はその名刺を確認すると次のように書いていあった。
「裏落語家 九笑亭魔法陣(きゅうしょうてい まほうじん)」
「う、裏落語家... ...。まさか!」
康夫は、名刺を見ながら頭の中で呟いた。そして和服姿のスキンヘッドを改めて見る。表情ひとつ変えず堂々とした雰囲気。このときの康夫は今までとは違う恐怖で全身を襲うのだった。
(中編に続く)
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こちらは56日目です。
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シリーズ 日々掌編短編小説 222
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