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猪鍋と蕎麦そして

「キャー、待ちに待った御馳走よ!」霜月もみじは、テーブル席に並んでいる鍋のセットを見て、うれしさのあまり悲鳴を上げる。

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「こちらが、猪鍋のセットでございます。一般的に『ぼたん鍋』と呼ばれておるもの。猪肉は縄文時代から食べられていた食材なので、どうぞ美味しくお召し上がりください。先に入れて火を通すために蓋をしますから、出来上がる時間までしばらくお待ちください」と、右斜め後ろから聞こえるのは、旅館にいる、ベテラン仲居のような声を出すスタッフの説明。その後いったん部屋を出ていった。

 もみじには、猪鍋には思い出がある。それは今から数年前。兵庫県の丹波篠山というところに行ったときのことである。当時付き合っていた彼は、学生時代に箱根駅伝の選手として走った経験を持っていた。
 ふたりは職場で知り合ったが、初めてのお泊りデートが丹波篠山である。実は篠山マラソン大会というものに彼は出場することになっていて、その応援に呼ばれたのだ。

「でも、私はあなたがゴールするまで」「ああ、まあそういうことだが、前の日に、ごちそうを食べよう」という甘い言葉に踊らされる。そしてついてきて食べたのが猪鍋。あの時の味が忘れられず、また食べたいと思っていた。

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「はい、ちょうど出来上がりました。いつでも食べられますよ」目の前にはしっかりと火が通った猪鍋が入っている。山の幸らしくキノコや豆腐、それから白菜などのなべの材料はそろい踏み。鍋からのの沸騰の泡立つ音、いったい誰なんだろう。この音を「ぐつぐつ」と表現し、それが鍋としてのおいしさのバロメータになったのは。

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「うふぅ。あ、さあ食べるわよ」もみじのテンションは、最高潮に盛り上がった。丹波篠山で味わったことがあるから、食べる前からなんとなく味がわかる。そして見た目は豚肉を少し濃い色といったところか。また脂身のつき方も豚肉に近い。
 詳しいことはわからないが、豚肉がイノシシと近いことはなんとなく理解している。そしてあのときの記憶。口に含むと、思ったほどジビエ特有の獣集は感じなかった。合わせる味噌の味のほうが強烈に覚えている。そしてその美味しさは豚肉の鍋とは違う。うま味成分は絶対豚肉にあるようだ。

「山の中を走っているからだわ。豚肉と猪肉の違いは地鶏とブロイラーの違いよ。間違いない」などともみじが口走るのは、目の前のごちそうをさらにおいしいものとイメージしたいから。 
 彼に「いちいち説明しながら食べるのか面倒だなあ」と言われたが、もみじはこの癖をやめない。

 さあいよいよ口を上げる、肉が目の前に来た。ところが突然後頭部に激痛が走った。一瞬視界が真っ暗になる。



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「あれ、ここは。 え?猪鍋はどこ」もみじは、後頭部を抑えながら現実が見えない。鍾乳洞?地底の中。紫色のに光っていて気味が悪い。「何これ、夢! え、何か出てくるの」
 すると洞窟の反響して、大きな音が聞こえる。「キャー本当に何かキタ!」

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「もみじ何やってんだ!大きい声出して。遅いと思ったらそこで寝てたんだろう」どこかで聞いたことがある声。それは今では夫となった彼、霜月秋夫である。
「え、何々?」意識が混濁しているように戸惑うもみじ。「だからネットで夜更かしするなと言っただろう。今日は早起きして洞窟探検に行くと決めてたのに。それでだ、来たら今度は『鍾乳洞が美しいから、ひとりでしばらく眺めたい』と文句を言うし。仕方なく先に出口に行ってたら、15分経っても戻ってこない。おかしいと思って引き返したらこのざまだ。やっぱり寝てたんだろう。おい、目が覚めたか」
 秋夫は右手をオデコにあてながら不機嫌に言い放った。

「あ、そ、そうか」もみじはようやく、我に返る。

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「さて、お昼は、ここだ」洞窟から出てきた秋夫が指さしたのは、そば屋である。するともみじは不快な声をだす。「えー。何で!そばって。そんなの駅でも食えるじゃん。ねぇ私あれ食べたいの。猪鍋!せっかくだし。ねぇお願い」と甘えた声でせがむもみじ。
 しかし秋夫は、眉間にしわを寄せ戸惑った表情をしながらため息をつく。

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「あのな、この前も行ったと思うけど、猪鍋は晩秋11月の中ごろ以降でないと食べられないんだ。ああいうジビエは解禁日というのがあって、今はまだ捕っちゃダメってなっているの」
「え~。まだ10月だもんね。うーん残念」もみじは、顔を下に向け落ち込む。

「そう落ち込むなよ。ここのそば屋は、ネットでの口コミ評価が高いんだぜ」そう言って秋夫は店のドアを開けた。

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「注文は任せてくれるか」「どうぞ。どうせ『そば』だし」と、不機嫌に言い放つもみじ。
秋夫は、そばの定食をふたつと日本酒を注文した。
「日曜日だから、昼から飲めるぞ」「そうね」酒を注ぐと、少しもみじの機嫌がよくなる。秋夫はこれまでの経験をうまく生かしながら、地元の酒を飲む。

「うーんいいねえ」「ぬる燗最高だわ」ビールと違い、日本酒の燗酒が口の中に含めて喉に流せば、内部から体が温まるから不思議なもの。
「お、思ったより早く来たぞ」ふたりの前にそば定食が出された。

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「お、駅そばとは違う!」「当たり前だろ。おまえ、大きい声出して。そば屋の人に聞かれたらどうする」
「あ!」思わず口を押えるもみじ。秋夫が恐る恐る、スタッフのほうを見ると、店主らしい親父が苦笑いをしていた。

 そしてさっそく割り箸を開き、そばをつゆにつけてすすりだす。口に含むと空気と一緒に食べるから音がする。あらゆる食べ物の中で、堂々と音が出せる希少な存在だ。そして永ぼそい蕎麦が口の中に吸い込まれる。その肌触りは十割そばらしさがてている。少し感じるざらつきのようなものが、心地よい。それ以上に「コシ」がしっかりしているのがわかる。つゆとの相性も最高だ。もみじは途端においしいもの食べた直後に味わう、高揚感が全身を包んだ。「おいしい!ごちそうだわ」と、紅葉は満面の笑みを浮かべる。

「そばの左にあるのは、柿の葉寿司だ。柿の葉でくるんだ押し寿司は美味しいぞう」とは、秋夫。柿の葉っぱを開いてみるとしっかり押し付けられたご飯。その上に載っている魚も見事に押し付けられていた。

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「うん、うまい。江戸前とは違った、こういう寿司もたまにはいいなあ」秋夫は目をつぶり、ついさっきまで閉ざされていた寿司を口の中に入れる。かすかな酸味と甘みのバランスが絶妙。複雑ながらも見事に調和がとれている。「少し草っぽい隠し味が、柿の葉の風味なんだろうか」秋夫は、小さくつぶやきながら、猪口に入った酒を一気に口に放り込んだ。

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「猪鍋は食べられなかったけど、この店美味しかった」「だろう、今日はちゃんと事前にここにすると決めていたんだ」と秋夫。ふたりは美味しものを食べた直後の満足感に浸っている。「あ、あそこで柿を売っているわ」
「お、いいね。近くの山で取れたのに違いない。買って帰ろう」と言って店の柿を眺めるふたりであった。



※こちらの企画に、飛び入りでかつぎりぎりに参加してみました。

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シリーズ 日々掌編短編小説 267

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