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誰にだって物語を語り、作り出すことは許されている
作家の燃え殻さんの「BEFORE DAWN」というラジオを毎週聴いている。
彼のラジオの後半で、リスナーから寄せられたメッセージを紹介するコーナーがある。
先日の投稿の中で、私の心に残ったやり取りがあった。具体的な細かい内容は忘れてしまったが、こんな内容だったと思う。
「私はこれからの人生、何かものを書いて生きていきたいと思っています。けれども、私は今までの人生を何不自由なく過ごしてきました。経済的にも恵まれていて、働かなくても生きていけます。年齢もいい歳になりました。
こんな私が書くものに関心を持って読んでくれる人がいるのでしょうか。燃え殻さんはどう思われますか」
燃え殻さんはこのように答えていた。
「僕が思うには、もしご自身がおっしゃっている通りだとして...あの、そこまで不自由なく生きてきた人が、それでも書きたいことがあるということが気になります。何を書くんだろう。僕は読んでみたいなと思います。
そんなあなたが、それでも書きたいことがある。
......読んでみたいですよね」
また、最近葉々社で購入し、拝読した「読む力・聴く力」という本のなかで気になった箇所を紹介する。
IO比(インプットとアウトプットの比)
IO比が高ければ高いほど、要するに材料をたくさん入れて少し出すと、その圧縮比が高いほど、情報がたくさんつまったいいものが書ける。
一般的に言っては、だいたい百対一ぐらいIO比がないと、ちゃんとしたものが書けません。だから本を百冊読んで、一冊本を書くという感じです。
上記は立花隆さんが述べている内容だ。
それに対して谷川俊太郎さんはこのように返している。
立花さんの場合には大量の書籍、あるいは大量の人からの話を聞くということがあって、インプットが千になったり、もしかしたら何千にもなると思います。それでアウトプットが一になるのがいい仕事になるであろうということをおっしゃったのですが、僕は自分が書いている詩のことをあのとき考えたのです。私は何をインプットしているのだろう。河合さんもちょっと詩の話に振ってくださったのですが、私はもしかするとインプットがゼロとも言えるし、もしかすると無限大とも言えるような気もしました。
詩というものはそういうものよりもっと意識の下のほうにあって、言葉にならないものがインプットで、それを言葉にするのが詩である。
それでも混沌というのは本当に日常生活のごくつまらないことから、もちろん読んだ本から、自分が好きで聞く音楽から、読んだ小説から、自然の風景から、すべてのものがインプットにはなっている。そういうインプットを私としては頭の中で処理しているのかと思ったのですが、どうも頭の中で処理しているだけでもないようだ。もう一つ、体も処理するのに関係しているような気もします。
谷川さんの書いたものは、先日書いた「ことばにならないものを〜」の記事とも重なる内容だが、私は両者のどちらがいいとか悪いとか、そういうことを思ったりはしない。
どちらもいいと思っている。
この2つの話から思ったことは、タイトルの通りである。
誰にだって物語を語り、作り出すことは許されているはずだ。
その人にしか書けないことある。
その人にしか語れないことがある。
その人にしか感じられないものがある。
その人にしか抱けない気持ちがある。
それを軽んじることは何人たりとも許されないはずだ。
波瀾万丈の人生。
苦労続きの毎日。
ありえないほどの劣悪な生活環境。
命も絶え絶えながらなんとか生きている日々。
または他者が羨望するような恵まれた生活。
憧れの地位。
幸運続きのお祭りのような毎日。
めずらしく貴重な体験をしないと
物語を書いてはいけないのだろうか。
たくさんの本や知識を学ばないと
生み出せないものばかりなのか。
私は平凡な毎日を過ごしている。
驚くようなエピソードが毎日起こるわけでもない、不幸な家庭環境で育ったわけでもない。
ごくありふれた1人の人間だ。
食べ物の中でれんこんが好きだ。
先日もれんこんを塩で炒めて、青のりをふりかけたものを大量に作って、喜んで食べ続けていた。
イメージとしてはれんこんの穴。
人によってはそれがドーナツでもなんでもいいが、私はれんこんにする。
私はこのせまい穴からしか
きっと、物事を見ていない。
私の持っているれんこんからのぞいた世界を、私は感じてことばにしている。
それを自覚しておくことは大切だと思う。世界の全てを見通せているなんて思っちゃいない。自分の力では穴からしか、私は世界を見ることができない。
と、同時に、そのれんこんはおそらく、私独自の切り口の穴であることを大事にしたい。
他の人の穴と違うはずだ。
他の人の物語にふれるとそれはよくわかる。
同じ穴を見ていても、全然違う切り口の穴を見ている。それがいいのだと思う。そして「あなたの切り口の穴から見える世界」を私は教えてほしいと思う。
あなたにしか語れないこと。
私にしか語れないこと。
私は、なるべく
同時に大切にしていきたいと思う。
ことばにするのが怖い人は
おそれず、安心して語る場所を
いつの日か見つけてほしいと願う。
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