『円満山少菩提寺四至封疆之絵図』- まちづくりの核となった偽の絵図
偽史、フェイクロア、創られた伝統といった背景を持つ場所や存在を、現実と妄想が交差する「特異点」と捉え撮影する記事。今回は、滋賀県湖南市にある『円満山少菩提寺四至封疆之絵図』を取り上げる。
※2024年5月20日、文化財の指定解除となる報道が出ました。本記事はそれ以前に撮影・執筆したものです。
『円満山少菩提寺四至封疆之絵図』とは
中世にあった少菩提寺の姿を描いた絵図
『円満山少菩提寺四至封疆之絵図』とは、室町時代、近江国甲賀郡菩提寺村(現在の滋賀県湖南市菩提寺)にあった少菩提寺とその周辺を描いた絵図である。
少菩提寺とは、菩提寺村にそびえる菩提寺山にあった山岳寺院で、中世に栄華を誇ったという(近世には廃寺となった)。
絵図は西應寺(西応寺)に伝わってきたもの
西應寺(湖南市)とは、奈良時代、奈良県の興福寺の別院として建立された大寺院『南都興福寺別院 円満山 少菩提寺』の「禅祥坊」を前身とする寺院。
『円満山少菩提寺四至封疆之絵図』は、その西應寺に伝わってきたもので、南龍王順という人物が江戸時代に模写したとされる。
しかし、この『円満山少菩提寺四至封疆之絵図』、実は『椿井文書』と呼ばれる後世に創られた偽文書のひとつであった。そして、作成者の南龍王順の正体は、『椿井文書』の生みの親、椿井政隆であった。
『椿井文書』とは
近畿の広範囲にわたって分布している偽文書
『椿井文書』とは江戸時代後期、椿井政隆によって作成された数百点もの古文書群である。主に、地域の神社仏閣の縁起書、由緒書や境内図などが書かれている。『椿井文書』は近畿一円に分布しており、未だその全容は把握されていない。またそれらの中には、貴重な地域史料として現代でも活用されているものも多く、大きな影響を与えている。
しかし近年、その多くは椿井によって創作された「偽文書」であることが、歴史学者 馬部隆弘氏によって本格的に明らかとなった。
では、なぜそんな偽文書が地域史に欠かせないものとして深く根を張り、現在に至るまでになったのか。
作成手法の巧みさ
史料同士の相互補完
椿井は、対象となる地域に目をつけると、そこにまつわる様々な文書を作成する中で、登場人物や起きた事象などを巧く相関させ、各文書を相互補完させていた。
また、個々の地域で完結するのではなく、複数地域を跨いで歴史を融合させていた。その最たるものが、『興福寺官務牒疏』である。これは、奈良県の興福寺の末寺をリストアップした文書だが、それを作成した意図について、馬部氏は以下の見解を述べている。
『円満山少菩提寺四至封疆之絵図』が描かれた菩提寺村においては、氏神である斎神社について書かれた『斎大明神社紀』という文書が、『広報こうせい1980年1月号』にて確認できる。これは、文明元年(1469年)三月に「青木治部尉檜物荘下司職源頼教」(=椿井政隆)が記したという体裁をとっている(『鈴木儀平の菩提寺歴史散歩』サンライズ出版、2011年)。
ほかにも、『祇園天王八王子社縁起』という文書には、菩提寺村にある和田神社と八王子神社が一括して書かれているという。これは、文明元年(1469年)四月に「下司職青木治部尉頼教」(=椿井政隆)が記した体裁をとっている(『鈴木儀平の菩提寺歴史散歩』サンライズ出版、2011年)。
中世の史料という体裁
『椿井文書』の多くは、中世の史料という体裁をとっていた。中世史料は現存数が少ないため、『椿井文書』に怪しさを覚えた研究者であっても、貴重な史料として非常に魅力的に見え、つい史実として取り上げてしまったという。
こうして、外堀を埋めるように周到に編まれたある種の「椿井史観」は、後世にまで継がれるものとなっていった。
フェイクの制作年月日が書かれている
それだけの執念をもって書かれた『椿井文書』。だが一方で、作成された年代表記については、嘘の年月日が書かれたものが多い。
『円満山少菩提寺四至封疆之絵図』でいえば、絵図の上部に「明応元年壬子四月廿五日」(1492年4月25日)と書かれている。しかし、明応元年は7月19日から始まる。したがって、本来なら明応ではなく、前の元号である延徳四年になる。このような年代表記を「未来年号」という。
なぜ、未来年号による日付が多く見られるか。それは、偽作としての痕跡をわざと残すことで、偽文書だと見破られたときに言い訳できるためではないかと考えられる。
また、『斎大明神社紀』、『祇園天王八王子社縁起』も同様に未来年号が用いられている。
※『祇園天王八王子社縁起』が書かれた文明元年四月は史実としては正しい。しかし馬部氏は、四月末に改元した情報が、当月中に近江の農村部にまで届くかは、当時の情報伝達速度を鑑みると疑問が残るため、広義の未来年号とみなせるのではないかと述べている。
文書全てが嘘ではないという厄介さ
発掘された瓦の年代が絵図と一致している
『椿井文書』の内容全てが偽りなのかといえば、実はそうでもない。事実も含んだうえで、織り込むように嘘が入っている。そのことが、『椿井文書』の立ち位置を難しくさせている。
『円満山少菩提寺四至封疆之絵図』における代表的なものとしては、発掘された瓦の年代が絵図と一致していることである。
湖南市菩提寺にて、2013年9月に通過した台風によって山崩れなどの被害が出た。その影響で流れ落ちたとみられる古い瓦が、小径沿いの小川から見つかった。それを受けて、翌年3月から複数回、菩提寺の跡地周辺を遺物採集調査をしたところ、鎌倉から室町時代にかけての瓦が発掘された。発掘場所は絵図に「開山堂」と描かれた、少菩提寺の表参道にあたるところだという。そして周辺には、建造物があったとみられる平地も確認された。
つまり、椿井はすべてを捏造するのではなく、現地調査もしたうえで、自身の考証を交えた絵図を描いたと考えられる。
地元の歴史を語るうえで欠かせない存在となる
湖南市の指定文化財への認定
『円満山少菩提寺四至封疆之絵図』は1977年、滋賀県の甲西町(当時)の指定文化財となる(現在は湖南市指定文化財)。
1992年には甲西町教育委員会が、西應寺の入り口に絵図の案内板を設置する。
県道沿いに巨大な絵図のプレートを設置
2001年には、菩提寺土地区画整理事業を記念して、湖南市菩提寺の県道沿いに、『円満山少菩提寺四至封疆之絵図』の巨大なプレートが設置される。
また、併記された解説は、絵図が中世の実態であると肯定する内容となっている。
地元住民らによる書籍の出版
2008年、地元の郷土史家である鈴木儀平氏を中心として、住民とともに「儀平塾」が立ち上がる。ほどなくして鈴木氏は亡くなるが、それまでに語った録音テープをもとにして、2011年に郷土誌『鈴木儀平の菩提寺歴史散歩』を出版。
書中では、絵図が『椿井文書』であると認識しつつも、地元の歴史を語るうえでなくてはならない貴重な史料であるという説明が加えられている。
湖南市立菩提寺まちづくりセンターと資料室の開館
災害時の避難所として、菩提寺における公的施設の必要性が話される。その後、議論を推進するために、2008年に「菩提寺まちづくり協議会」が設立。そして2015年、「湖南市立菩提寺まちづくりセンター」が開設。
センター開設と同時に、緊急時だけでなく、日常的な交流、催しの場という機能の一環として菩提寺歴史文化資料室が開設された。
このような経過を経て『円満山少菩提寺四至封疆之絵図』は、行政や公的機関が史料としての価値にお墨付きを与えることとなった。そして絵図は、『椿井文書』であると判明した現在も、地域史に欠かせないものとして大きな影響力を持っている。
終わりに
偽文書から見つめ直す歴史観、利用価値
歴史学の観点では、偽文書としての指摘は必要だろう。一方で、地元のアイデンティティという観点では絵図は密接に関わっており、一概に否定できるものではない。なぜならそこには、地元の歴史がこうあってほしいという願いが反映されている。
「菩提寺まちづくり協議会」設立には、地域住民の視点を共有できるもの、次世代へのまちづくりの起爆剤を探していた背景があったという。その中で活路を見出したのが、『円満山少菩提寺四至封疆之絵図』を含む地域の歴史だった。
菩提寺まちづくり協議会のメンバーで、資料室の解説員でもある田中秀明氏に話を伺うと、「偽文書」という事実とは別に、受け継がれてきた伝承という歴史観は大切であると語った。
今後は中世史料としてではなく、近世以降の歴史認識、価値観に迫れるものとして再定義してみることで、「史実」と「心性」の両義性を持った文化財という方向性が見出せるかもしれない。
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