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今日も生き残ったということ『あの日、水の森で』

今回は草間小鳥子の詩集『あの日、水の森で』を紹介する。
他の作品には、『手のひらに冒険』、『ビオトーブ』、『源流のある町』がある。

私はこの詩集を読んで寺田寅彦の「柿の種」のことばを思い出した。

日常生活の世界と詩歌の世界はただ一枚のガラス板で仕切られている。
このガラスは、初めから曇っていることもある。
生活の世界のちりによごれて曇っていることもある。

『柿の種』寺田寅彦(p.11)

これと同じ話ではないのだが、少し似ていることを思った。私が見ている日常の世界にも透明の壁があって、私にはそれを見ることはできないし触れることもできない。でもその壁を通り抜けてしまって、そこで見えたものや触れたものを紹介してくれる。そういう人がいる。そういう人のことを「感覚が突き抜けている」「鋭い」というのだろう。

私の好きな詩「夏のにおい」」の一部を紹介する。

生きものが死ぬと
甘いにおいがする
夏になるとたくさん死ぬ
だから空気はほのかに甘い
心地よい
とわたしたちは思う
なつかしい
と思うことも

生き残ったものたちではじめる朝

『あの日、水の森で』「夏のにおい」(p.28)

「生き残ったものたちではじめる朝」が印象的だ。初めて読んだとき、はっとした。死んだもののことを感じている私たちは今日も生き残ったのだ。当たり前のことを言っているようだけれど、私一人では感じ取ることができなかった日常の世界のことを教えてくれた。そんな体験がとてもうれしい。
また、やさしい雰囲気を持ったことばが心地よく水に浮いているときような気分になる。
そのほか「梯子」、「耳畑」なども印象に残る詩だった。

前半で私は透明の壁を見ることはできないし触れることもできないと書いたが、ほんとうは見えているのかもしれない。気づいていないだけかもしれない。触れることもできるのかもしれない。見えないものを紹介してくれるというよりは「あなたにもこんな世界が見えるよ」と教えてくれているのだと気づいた。

最後まで読んでくださりありがとうございました。
次回は張文經の「そらまでのすべての名前」を紹介します。

(今日は寝坊してしまって目標である早朝の投稿ができませんでした。計画を見直して、次から早起きできるようにがんばります。)

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