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光瑤生誕140年展に寄せて 山岳写真史再考

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2024年7月13日から始まった石崎光瑤展。光瑤は日本画家として有名ですが、1906~1911年の5年間は登山に熱中し、貴重な写真や絵を残しました。光瑤展は花鳥画中心の展示ですが…
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(6)橋本関雪と渡印計画?

石崎光瑤生誕140年福光展のインド関係展示には興味深いものがあった。特に、大正4年の『画会人名簿』と『渡印百画会金銭出納簿』。 光瑤が大切に保管してきたものなのか。 説明書きに「木津太郎平が世話人」とあるのを見つけて、やはり高岡との縁だなと直感した。 「光瑤画伯印度行 ヒマラヤ踏破の決心」という記事を見つけたのは、3年前、コロナ禍の最中だった。大正時代の新聞を見て大井冷光の動静を追っていた時、偶然見つけたのでコピーしておいた。 そこには「橋本関雪画伯もまた同船して印度

(5)登山史精度向上が必要

石崎光瑤生誕140年福光展の第1会場の入り口に略年譜のパネルがあった。全部読もうとしたが途中で目で追えなくなりギブアップした。 吉田博の生誕140年展はたしか入り口でなくて出口に近いところに略年譜があった。順路の最初にこれがあると「重い」からだろう。だから入り口には、あの黒田清輝と対峙したという、講談師による九州弁の動画があった。 光瑤140年展でも最初にコマ漫画を配置するなど、和らげるための工夫がしてあった。 それにしても略年譜はあまりに細かい。初めて光瑤展に来る人に

(4)「記念」2文字の是非

少し横道にそれる。この展覧会が告知されたときから気になっていたことがある。 それは正式名、特別展「生誕140年記念 石崎光瑤」に対する違和感である。 えっどこが、と思われるかもしれない。 「記念」の2文字がなければいいのではないか。 記念と石崎の間に空白を入れて読みやすくなっているが、2つの単語がどうもうまくつながらない。 空白部分に助詞を補うと違和感の理由が見えてくる。 「生誕140年の石崎光瑤」ならいいが「生誕140年記念の石崎光瑤」というと変な感じ。「石崎光

(3)見たかった純白の夏服

光瑤の等身大パネルが玄関から第1会場へ行く通路に展示してあった。 記念撮影ポイントらしくスマホ台が用意してある。 ミュージアムディスプレーの定番であり夏休み向けにほどいい企画だ。 「身長176cm」「明治40年白山登山を前に万年寺にて」と説明があるが少し物足りない。 ショップではなくミュージアムがこうしたものを作るなら学習的な要素を付加した説明があってもいい。 右手の網代笠、背負った茣蓙、足元の草鞋。左手を腰に当ててポーズを決め微笑んでいる。117年前の登山ファッシ

(2)写真《劍岳の絶巓》作品扱いせず?

光瑤140年福光展で最も残念なのは《劍岳の絶巓(遠景は白馬連峰)》の扱いである。 福光展は会場が3室。山岳関係は第2会場(2階)の一角に国内分6点とインド関係6点がまとめられている。[1] 少々寂しい点数だが、「花鳥画」に力点をおく方針ならやむをえまい。数の少なさは理解するし同情もする。 しかし《劍岳の絶巓》をめぐっていささか配慮に欠けるように感じた。 国内分6点の一角に、B1判ほどの大きさのパネルが掲げられている。 「山が光瑤にもたらしもの」というタイトルで、50

(1)「立山写生」明治40年は本当か

光瑤生誕140年展を見てきた。初の全国巡回展という。地元福光(富山県南砺市)を皮切りに4か所をまわる。毎日新聞の記事によれば、京都のひとりの学芸員が注目して実現したのだそうだが、正直なところ地元では「飽き」が生じていたので、外部からの見つめ直しはありがたいことだ。まず感謝もうしあげたい。[1] 各巡回展でサブタイトルが違っている。福光展は「花鳥画の極 Real & Spirit」という。控えめの越中人感覚では「極み」とまでいうか、と思う。9月の京都展は「若冲を超えろ!絢爛の