(5)登山史精度向上が必要
石崎光瑤生誕140年福光展の第1会場の入り口に略年譜のパネルがあった。全部読もうとしたが途中で目で追えなくなりギブアップした。
吉田博の生誕140年展はたしか入り口でなくて出口に近いところに略年譜があった。順路の最初にこれがあると「重い」からだろう。だから入り口には、あの黒田清輝と対峙したという、講談師による九州弁の動画があった。
光瑤140年展でも最初にコマ漫画を配置するなど、和らげるための工夫がしてあった。
それにしても略年譜はあまりに細かい。初めて光瑤展に来る人にとってはもっと簡略でいい。詳細は図録をごらんください、のほうがよかった。
さて登山史に関連して、明治39年から44年まではしっかり読ませてもらった。ここ10年くらいの光瑤展の略年譜と比べて大きな差はなかった。つまり進展はあまりないということか。
気になった点を順にみておこう。
和善の病没が何月なのか。立山登山との関係から知りたいところだ。帰郷は単身だったのか、それとも家族が誰か一緒だったのか。
夏の白山は、加賀から登り飛騨側に下山したのが、紀行文(『山岳』第4年第1号)の回想から既に知られている。「小矢部川上流から五箇山を経て」では飛騨から登ることになり、正誤が怪しい。写真のメモ書きから8月1日は登頂日。また同様の回想から河合良成が同行したのもほぼ間違いない。吉田孫四郎を含めて全部で3人ということになるのか、さらに調査が必要だ。
立山・針ノ木越え・白馬岳の3つの登山に分けたほうが分かりやすい。登山史としては「白馬岳で志村烏嶺と会う」を入れるとなお良かった。10月の大白川・白水滝(秋の白山)は略さないでほしい、『山岳』の寄稿デビュー作だから。
「河東碧梧桐ら」でもよいが、俳句と光瑤のつながりが薄いとしたら、「辻村伊助ら」としたほうが登山史として意味があった。碧梧桐の『続三千里』によれば、8月1日に「高山植物実写に熱心な画家光瑤氏が、辻村君と相知だといふので尋ねて来る。予の部屋は一時人を以て埋った。山岳談、探検談、植物動物談、野宿の話などが相互に交換されて(以下略)」とある。
白山登山(春の白山)は、平瀬発着でみると5月13日~16日となる。『高岡新報』によれば福光発は5月10日。「5月8日~13日」は間違いなので注意してもらいたい。「槍ヶ岳登山」と明記されたのは進展。「写生・撮影のため上高地に滞在」の典拠は『山岳』だが、目的は滞在でなく登山なので、「8月 槍ヶ岳登山(立山温泉―針ノ木峠―大町―松本―徳本峠―上高地―焼岳・槍ヶ岳)」とした方がなおよかった。焼岳登山は、九死に一生を得たエピソードや焦林の写真が知られるので加えたほうがいい。
いずれにしても光瑤の登山史はまだ不明な点があり、もっと精度を高めていく必要がある。(つづく)