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明治大正の児童文化運動・唱歌童謡・美術・立山黒部・測量史・地形図などに関心があります。…

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明治大正の児童文化運動・唱歌童謡・美術・立山黒部・測量史・地形図などに関心があります。見過ごされてきた歴史に光を当て、他の人とは違う角度からものを見て、なるべく辛口で書いていきます。精神年齢が現代より20歳ほど上の明治大正の人ならどう考えるのかと自問自答しています。

マガジン

  • 石崎光瑤 カシミールの山旅

    日本画家、石崎光瑤が1917年(大正6年)に旅したカシミールの山をたどります。インド滞在は約6カ月、そのうちカシミールは1か月余りで、特に2つの山に登ることを目的としていました。当時の記録からその具体的なルートを追跡していきます。

  • 石崎光瑤の槍ヶ岳登山

    日本画家、石崎光瑤が明治43年(1910年)夏に挑んだ槍ヶ岳登山を読み解き、その深層に迫ります。剱岳第2登についても、光瑤撮影の写真を詳細に分析し、深読みをしました。

  • 光瑤生誕140年展に寄せて 山岳写真史再考

    2024年7月13日から始まった石崎光瑤展。光瑤は日本画家として有名ですが、1906~1911年の5年間は登山に熱中し、貴重な写真や絵を残しました。光瑤展は花鳥画中心の展示ですが、山岳関係の展示もわずかにあります。これを機に、光瑤の登山史を見つめ直します。

  • 気になる記事

  • 光瑤、覚醒す ― 飛騨・大白川渓谷 くるま旅

    日本画家の石崎光瑤が1907年から1910年にかけて三たび訪れた大白川渓谷を114年後にドライブ。光瑤の紀行文と写真・絵を読み解きながら、時空を超えて光瑤の魂を感じる旅です。

最近の記事

(8) コラホイへの憧れか

パハルガムは東リダル川と西リダル川が合流する盆地にある。標高2145メートル。東の谷を行けばチャンダンワリを経てシシャナーグそして聖地アマルナート洞窟、西の谷を進めばアルー村を経てコラホイそしてシンド谷へ抜ける道もある。 石崎光瑤が旅した1917年5月、当時はここからタニンまで、ポニーが使えない山道となった。道そのものが険しかったからか、それとも雪道だったからか。ポニーの代わりに25人のポーターが必要だった。丸一日かけて20人を集め、一行は30人という大所帯となった。 注

    • 石崎光瑤の槍ヶ岳登山 目次

      序章 概説はじめに ―「掉尾を飾る」山旅 4つの先行研究 『山の写真と写真家たち』(1985年) 『絢爛の花鳥画 石崎光瑤』(1995年) 「花鳥画家、石崎光瑤がみた山」(2003年) 「早期岳人の消息-石崎光瑤あての絵葉書発見-」(2009年) 『山岳』にわずか2行 第1章 謎多き5年間明治39年(1906) 夏の立山① 雑誌『山岳』の創刊 明治40年(1907) 夏の白山① なぜか浄土山の挿絵 明治41年(1908) 夏の立山②、針ノ木越え、白馬岳 志村烏嶺との交

      • (7) 白芍薬と感動の出会い

        マハデブ登山から戻った石崎光瑤の一行は、翌々日にはリダル渓谷のシシャナーグ登山に向けてスリナガルを出発した。『印度行記』によれば、5張のテントと1か月分の食料を用意したという。その計画は次のようなものである。 現在の地名により近い表記に改めると次のようになる。ただし標高はフィート表記をメートルに換算したのみで、現代に採用されている標高ではない。[1] これらの地名で「ぺスホウ峰」だけが正確に分かっていないが、全体を見ておおよそのルートは分かる。同じ縮尺の地図で日本の北アル

        • (6) 神の山マハデブの眩惑

          大正6年、石崎光瑤はヒマラヤのマハデュム峰(3966m)の登頂に日本人登山家として初めて成功した。 このような文章を読んで「偉業を成し遂げた」「快挙を達成した」「未踏峰を制覇した」などと早合点してはいけない。 この文章は大きく間違っているわけではない。が、これだと「ウォルター・ウェストンは1893年、越中立山の登頂に成功した」と書くようなものである。江戸時代後期から立山登拝という信仰登山がすでに盛んだったことを考えれば「登頂に成功」という表現はいささか大げさなのだ。山固有

        (8) コラホイへの憧れか

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        • 石崎光瑤 カシミールの山旅
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        • 石崎光瑤の槍ヶ岳登山
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        • 気になる記事
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        • 光瑤、覚醒す ― 飛騨・大白川渓谷 くるま旅
          19本
        • 剱岳初登頂の史実 小説『点の記』とどう違うか
          4本

        記事

          (5) ボンベイからスリナガルまで

          石崎光瑤の「カシミールの旅」の書きだしはまるで映画のようだ。 地図と参考書 トランクに入れ1917年4月20日金曜日、インド・ボンベイ。 カエンボクの赤い花が咲き始めた。在留邦人は「ボンベイ桜」とも呼ぶ。これから季節は乾季から雨季へと移り変わる。遠くに層積雲を見つけて、石崎光瑤(33歳)は山が恋しくなった。 1本の電報が届いた。カシミールの山案内をするシカリ(ポーター・荷担ぎの人々を指揮する人)が、スリナガルの町まで下りてきた、どうするか、というのだ。 シカリはふだん

          (5) ボンベイからスリナガルまで

          (4) 「印度行記」を読み解くために

          石崎光瑤による「印度行記」は、大正8年2月15日発行の『印度窟院精華』の中に収められた紀行文である。約60000字、400字詰にして150枚という分量がある。全部で19章に分かれ、割り付けられた写真は95枚である。[1] 光瑤が帰国したのは大正6年7月26日で、緒言の日付が大正7年10月であるから、この本がまとまるまで約1年4か月かかっている。19章はすべてを書き下ろしたわけでなく、新聞・雑誌に寄稿したものをベースにして再構成している。 光瑤の「印度行記」のカシミール関係

          (4) 「印度行記」を読み解くために

          (3) 書名はシンプルがいい

          『印度窟院精華』。インド、くついん、せいか。好奇心をくすぐる書名である。 石崎光瑤のカシミールの旅をたどる前に、大正8年2月15日発行のこの本について「全体像」をみておく、と前回書いた。 全体像とはおおげさな、と思われるかもしれないが、この本、調べていくと意外と奥が深い。2000年に復刻された『印度窟院精華・印度行記』は、実は原著の一部分でしかないのだ。 原著の目次を極力正確に並べてみよう。 中身として重要なのは、「緒言」「印度後記」、それとエレファンター以降の石窟寺

          (3) 書名はシンプルがいい

          (2) 山名は一筋繩ではいかない

          「マハデュム」と「シシャナーグ」に向けて、107年前の石崎光瑤はどのルートをたどったのか。 『印度行記』に入る前に、山名と標高の問題を考えておこう。 結論から言うなら、「マハデブ」「シェシュナグ」とするのが現代の一般的な日本語表記である、と提案したい。言語学の専門分野からの意見を聞いてみたい。提案をしておきながらも、以下では旧表記をそのまま混ぜて使うことにする。 そして2つの山の標高については現時点(2024年9月)では保留とする。そのくらい外国の山の標高の問題は難しい

          (2) 山名は一筋繩ではいかない

          (1) はじめに

          日本画家、石崎光瑤(1884 - 1947)にとって、生涯忘れられぬ山旅はいくつかある。 大正6年(1917)春に行ったカシミールの山旅は、その後の画業に大きな影響を与えた。 帰国後に『印度窟院精華・印度行記』という報告書が限定200部発行されたのは大正8年。その81年後の2000年、富山県立山博物館によって復刻されて、すばらしい彩色写真とともに、旅の全体像は明らかにされてきた。 これにあわせて同館は開館10周年記念の特別企画展「石崎光瑤の山」を開催し、ひと通り整理した

          (6)橋本関雪と渡印計画?

          石崎光瑤生誕140年福光展のインド関係展示には興味深いものがあった。特に、大正4年の『画会人名簿』と『渡印百画会金銭出納簿』。 光瑤が大切に保管してきたものなのか。 説明書きに「木津太郎平が世話人」とあるのを見つけて、やはり高岡との縁だなと直感した。 「光瑤画伯印度行 ヒマラヤ踏破の決心」という記事を見つけたのは、3年前、コロナ禍の最中だった。大正時代の新聞を見て大井冷光の動静を追っていた時、偶然見つけたのでコピーしておいた。 そこには「橋本関雪画伯もまた同船して印度

          (6)橋本関雪と渡印計画?

          (5)登山史精度向上が必要

          石崎光瑤生誕140年福光展の第1会場の入り口に略年譜のパネルがあった。全部読もうとしたが途中で目で追えなくなりギブアップした。 吉田博の生誕140年展はたしか入り口でなくて出口に近いところに略年譜があった。順路の最初にこれがあると「重い」からだろう。だから入り口には、あの黒田清輝と対峙したという、講談師による九州弁の動画があった。 光瑤140年展でも最初にコマ漫画を配置するなど、和らげるための工夫がしてあった。 それにしても略年譜はあまりに細かい。初めて光瑤展に来る人に

          (5)登山史精度向上が必要

          (4)「記念」2文字の是非

          少し横道にそれる。この展覧会が告知されたときから気になっていたことがある。 それは正式名、特別展「生誕140年記念 石崎光瑤」に対する違和感である。 えっどこが、と思われるかもしれない。 「記念」の2文字がなければいいのではないか。 記念と石崎の間に空白を入れて読みやすくなっているが、2つの単語がどうもうまくつながらない。 空白部分に助詞を補うと違和感の理由が見えてくる。 「生誕140年の石崎光瑤」ならいいが「生誕140年記念の石崎光瑤」というと変な感じ。「石崎光

          (4)「記念」2文字の是非

          (3)見たかった純白の夏服

          光瑤の等身大パネルが玄関から第1会場へ行く通路に展示してあった。 記念撮影ポイントらしくスマホ台が用意してある。 ミュージアムディスプレーの定番であり夏休み向けにほどいい企画だ。 「身長176cm」「明治40年白山登山を前に万年寺にて」と説明があるが少し物足りない。 ショップではなくミュージアムがこうしたものを作るなら学習的な要素を付加した説明があってもいい。 右手の網代笠、背負った茣蓙、足元の草鞋。左手を腰に当ててポーズを決め微笑んでいる。117年前の登山ファッシ

          (3)見たかった純白の夏服

          (2)写真《劍岳の絶巓》作品扱いせず?

          光瑤140年福光展で最も残念なのは《劍岳の絶巓(遠景は白馬連峰)》の扱いである。 福光展は会場が3室。山岳関係は第2会場(2階)の一角に国内分6点とインド関係6点がまとめられている。[1] 少々寂しい点数だが、「花鳥画」に力点をおく方針ならやむをえまい。数の少なさは理解するし同情もする。 しかし《劍岳の絶巓》をめぐっていささか配慮に欠けるように感じた。 国内分6点の一角に、B1判ほどの大きさのパネルが掲げられている。 「山が光瑤にもたらしもの」というタイトルで、50

          (2)写真《劍岳の絶巓》作品扱いせず?

          (1)「立山写生」明治40年は本当か

          光瑤生誕140年展を見てきた。初の全国巡回展という。地元福光(富山県南砺市)を皮切りに4か所をまわる。毎日新聞の記事によれば、京都のひとりの学芸員が注目して実現したのだそうだが、正直なところ地元では「飽き」が生じていたので、外部からの見つめ直しはありがたいことだ。まず感謝もうしあげたい。[1] 各巡回展でサブタイトルが違っている。福光展は「花鳥画の極 Real & Spirit」という。控えめの越中人感覚では「極み」とまでいうか、と思う。9月の京都展は「若冲を超えろ!絢爛の

          (1)「立山写生」明治40年は本当か

          19. 光瑤生誕140年を祝う

          石崎光瑤は1910年5月、14日間かけて往復72里(288km)を徒歩で旅し、春の白山を写生し撮影した。 それをわずか5時間でドライブし、デジタルカメラで速攻撮りするという現代の旅。あの世の光瑤も苦笑するしかあるまい。 それにしても現代の撮影技術の進歩は驚くべきものだ。 水しぶきなどモノともしないカメラがある。写真は動画になり音声をも記録できる。ドローンという技術は視点を地上から解放した。危険を冒してわざわざ断崖を降りなくても、鳥の眼のようになって撮影することが可能なの

          19. 光瑤生誕140年を祝う