(1)「立山写生」明治40年は本当か
光瑤生誕140年展を見てきた。初の全国巡回展という。地元福光(富山県南砺市)を皮切りに4か所をまわる。毎日新聞の記事によれば、京都のひとりの学芸員が注目して実現したのだそうだが、正直なところ地元では「飽き」が生じていたので、外部からの見つめ直しはありがたいことだ。まず感謝もうしあげたい。[1]
各巡回展でサブタイトルが違っている。福光展は「花鳥画の極 Real & Spirit」という。控えめの越中人感覚では「極み」とまでいうか、と思う。9月の京都展は「若冲を超えろ!絢爛の花鳥画」とこれまた絶賛だ。キャッチコピーなんだからおおめにみてね、ということか。
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前置きが長くなったが、私の関心事は、花鳥画でなく、登山史や山岳写真史や山岳絵画史である。福光展を見て気づいたことを忌憚なく綴っておきたい。それが将来のためだから。
もっとも気になったのは《立山写生 巻一》(富山県美術館所蔵 31.0mm×576.5mm)である。これまでの展覧会では《立山写生画巻》とされていたが、今回は表題を改めたようだ。その理由は説明されていない。すぐ隣に、高岡市美術館所蔵の《立山写生 巻二》が展示されていたので、それとの統一感を考えたのかもしれない。
表題を統一したのはとりあえずよしとしよう。問題は制作年である。《巻一》は明治40(1907)年、《巻二》は明治41(1908)年とある。[2]
富山県美術館の収蔵品データベースでは、たしかに明治40(1907)年となっている。ところが、直近の2023年9月の「ヘテロジニアスな世界 光瑤×牛人展」では《立山写生画巻》明治41(1908)年とされていた。
いったいどちらが正しいのか。
1年ぐらいどうでもいいじゃないか、と言ってはいけない。明治40年と明治41年では意味が大きく違うのだ。明治40年は陸地測量部の柴崎芳太郎が率いる測量隊によって剱岳登頂が行われた年。《巻一》に含まれる「富士ノ折立より見たる剱岳」(仮題)という絵がもし明治40年に制作されたとすると、光瑤が柴崎と同じころにすでに剱岳を視野に入れていたことになり、登山史がおかしくなってしまう恐れがあるのだ。
《富士ノ折立より見たる剱岳》は、『山岳』第5年第1号の巻頭画《富士の折立より見たる剣岳》に限りなく近いものだ。巻頭画は明治42年に描かれたとみるのが順当である。
明治42年7月24日に剱岳登頂を果たした後、11日後に富山日報記者の大井冷光とともに富士ノ折立に登って剱岳の写真を撮ったという記事が『富山日報』にあり、その時のものとみられる写真の図柄と巻頭画が酷似している。
こうなると、《巻一》に含まれる「富士ノ折立より見たる剱岳」は明治42年制作とみたほうがいい。
光瑤は明治40年夏、白山に登った。そもそも同じ年に立山にも登ったかどうかという問題がある。明治39年に初めて立山に登った。明治41年にも登った。そして『山岳』によれば、明治42年に3回目の立山登山をしたと記されている。とすれば明治40年には立山に行っていないと見るのが自然であるように思える。
対案を示しておこう。《立山写生画巻》=《立山写生 巻一》は、《山岳写生 巻一》(制作年・明治40~43年)としたほうが無難である。《巻一》全13図には雷鳥らしい鳥が数点含まれ、それは白山で写生した可能性もある。立山に限定しない方がいい。画巻は制作年が違う絵をつなぎ合わせた可能性を残すので制作年も幅を持たせておくのがいい。
いずれにしても、写生には小さな字のメモ書きがいくらかあるので今後さらに分析していく必要がある。
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[1]正式展覧会名は、特別展「生誕140年記念 石崎光瑤」。本ブログでは光瑤生誕140年展と略す。
[2]《巻一》《巻二》は、図録「ヘテロジニアスな世界 光瑤&牛人」(2023年・高岡市美術館)に全図が収録されている。ただ小さくて細部は見えない。全13図のうち植物4、山岳風景3、鳥5、不明1。
《巻二》は42.7mm×534.4mm、全18図。すべて植物。