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(2)写真《劍岳の絶巓》作品扱いせず?

光瑤140年福光展で最も残念なのは《劍岳の絶巓(遠景は白馬連峰)》の扱いである。

福光展は会場が3室。山岳関係は第2会場(2階)の一角に国内分6点とインド関係6点がまとめられている。[1]

少々寂しい点数だが、「花鳥画」に力点をおく方針ならやむをえまい。数の少なさは理解するし同情もする。

しかし《劍岳の絶巓》をめぐっていささか配慮に欠けるように感じた。

国内分6点の一角に、B1判ほどの大きさのパネルが掲げられている。

「山が光瑤にもたらしもの」というタイトルで、500字余りの文章があり、その下に《劍岳の絶巓》がある。写真説明のほか注釈として「原板:剣岳初登頂の記念写真(石崎光瑤撮影)/杉本誠収集作品 安曇野市」とある。

右が展示パネル「山が光瑤にもたらしたもの」
その下部の写真が《劍岳の絶巓》
右のショーケースが《立山写生 巻一》

展示目録を見直すと《劍岳の絶巓》はそもそも作品に含まれていない。つまり添え物なのである。なぜ作品として扱わないのか。ちなみに京都文化博物館の紹介ページでは他の絵画と同等の作品扱いをしている。

ただの記念写真だからねえ、という見方があるとすれば、それは時代感覚がズレている。明治時代末に、わらじ履きで岩壁を登り、20キロもある機材を案内人が担ぎ上げ、撮影するまでの手間と時間は、今のスマートフォンとはくらべものにならない。

石崎光瑤は明治時代末、日本の山岳写真史草創期5人のうちの一人だ。

光瑤は撮影を繰り返しながら先を行く仲間を追いかけ、狭い頂上では背景を考えながら被写体に声をかけて撮影した。6人のうち5人が鳶口や杖を手にしポーズをとっていることから、光瑤による演出があったものと推定される。

この《劍岳の絶巓(遠景は白馬連峰)》は、1990年代までは暗部が黒くつぶれて表情がわからなかったが、現代のデジタル技術では6人の表情がはっきりとわかる。しかも各々の服装や手にしている鳶口を子細に見ることで、他の写真の意味を読み解くことができる。[2]

特別展としてこの写真をリスペクトするなら、きちんと作品として扱い、その貴重さをしっかり説明したほうがよかったのでないか。

なお、パネルの本文に「三角櫓」とあるが、これは櫓ではない。ただの丸太棒だ。「三角点標」または「測標」または「測量標」と書けばよかった。明治40年夏、柴崎隊は三等三角点設置を目指したが難路で四等三角点しか設置できず、1本の柱を立てるのが精いっぱいだった。その1本が接ぎ木かどうかをめぐって、柴崎の登頂疑惑が『山岳』に提起され論争になった。この登山史のエピソードが念頭にあれば「櫓」という表記はでてこない。

会場パネルの説明書きの最後にはこうある。

光瑤の画家としての転換点には必ず山の存在がある。光瑤にとって登山は、画題を求める画業の一端でありながら、山中に美の神髄を純粋に求めた、特別な時間であったのだろう。

特別展「石崎光瑤 生誕140年記念」パネル「山が光瑤にもたらしもの」

美化しすぎると、あの世の光瑤は嘆息する。もうすこし表現を抑制してはどうか。若冲研究という大きな転換点に山の存在があったのか。光瑤は結局、山水ではなく花鳥に軸足を移すことになる。それはなぜか。(つづく)

[1]国内分は《立山登山 高山植物》《立山写生 巻一》《立山写生 巻二》《高嶺百花譜》《白山の霊華》《信州槍岳之図》。

[2]《劍岳の絶巓(遠景は白馬連峰)》を収集した杉本誠氏はオリジナルプリントを重視した。その考えは十分首肯できるが、こだわりすぎてもよくない。明治時代末のプリント技術がガラス乾板の写真の高精細を十分に表現できなかったのは事実である。デジタル写真の時代には、オリジナルプリントを重視しつつ、黒くつぶれた部分をうまくおこすようにして資料価値や芸術性を高めるという考え方があってもおかしくはない。

[3]「光瑤」か「光瑶」か。「剣岳」か「剱岳」か。それとも「劍岳」か
「劔岳」か「劒岳」か。「原板」か「原版」か。夏休みの宿題にちょうどいい頭の体操かもしれない。

➡「附章 光瑤の剱岳を解析する

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