(6)橋本関雪と渡印計画?
石崎光瑤生誕140年福光展のインド関係展示には興味深いものがあった。特に、大正4年の『画会人名簿』と『渡印百画会金銭出納簿』。
光瑤が大切に保管してきたものなのか。
説明書きに「木津太郎平が世話人」とあるのを見つけて、やはり高岡との縁だなと直感した。
「光瑤画伯印度行 ヒマラヤ踏破の決心」という記事を見つけたのは、3年前、コロナ禍の最中だった。大正時代の新聞を見て大井冷光の動静を追っていた時、偶然見つけたのでコピーしておいた。
そこには「橋本関雪画伯もまた同船して印度に向ひ彼地を一巡して」とある。関雪と言えば、竹内栖鳳の絵を下手だと言い放って弟子入りしたけど対立した人。光瑤は栖鳳にずっと師事した人だという認識だったので、ちょっと信じがたい記事かな、と思っていた。
ところが今年春(2024年3月)、光瑤の山岳を調べ始めて、またしても記事が見つかった。
「行き悩む青年画家 行先の印度が不穏の形勢ある為」という見出しで、「仏像狂の関雪氏山の子の光瑤氏相携えての印度旅行は必ずや大なる獲物を京都の画壇に齎すだらう」とある。
えーっつ、やっぱりそうなの。
その答えが、生誕140年福光展で見つかるかな、と思って期待していたが、前述の2つの資料までだった。結局、光瑤は関雪と印度に行っていないはずだが、計画段階で関雪とつながりがあったのは事実のようである。
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「進撃の巨匠 竹内栖鳳と弟子たち」という企画展が今年(2024年)初めに京都で開かれた。忘れられたわけではないだろうが、そこに光瑤はなかったらしい。なんとも寂しい話だ。明治39年から5年間、立山・剱、白馬岳、白山、槍ヶ岳を登り、さらにインドまで出かけた光瑤に「進撃」と冠したところでなんの違和感もない。
考えてみると、だからこそ来月から京都で始まる光瑤生誕140年展には大きな意味があるのだ。そこで観覧する人たちには、頭の片隅に「光瑤の山岳」をイメージしながら「若冲を超えるかどうか」見てほしい。
ついでの話だが、大正10年は酉年。正月の新聞に、改井徳憲という画家が書いた「鶏画家若冲の話」という記事があった。酉年に鶏画家ね、なんだすでに話題になっていたのか。
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光瑤140年展に寄せてはこれでいったん終わります。
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