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助けを求めることを恐れないで~児童虐待防止推進月間に伝えたいこと③~


中学3年生の頃、私、そして精神を病んだ母はいろんな方の力で助けられますが、それまでのことを少し遡ってお話します。

↑こちらの記事の続きです。


どうか、助かることを諦めないで。自分の伸ばした手を掴んでくれる誰かに出会えるまで、何度だって助けを求めていいのだから。

福祉と医療

中学生になると、学校指定の鞄が買えずに私だけ普通のリュックで通学したり、食料が買えずお米しか食べるものがなかったり、とにかく親戚から無心して得たお金だけでは生活できず、「命を狙われるから国や自治体には頼りたくない」と言っていた母も、生活保護の申請のために仕方なく私を連れて福祉事務所を訪れました。

福祉事務所の方が「働けないということはどこか悪くて通院していますか?」と聞くと、「病気なんかじゃありません!」と訴える母。
福祉事務所の方は何か察したように、「元気ならそれを確認してもらうためにも病院へ行きませんか?」と、どうにか病院へ行くよう説得します。
数日後、母は病院へ行き、生活保護の申請も私が学校にいる間に済んで、数ヶ月後には保護費をもらって生活できるようになりました。

きっと、このとき母は統合失調症と診断されたのでしょう。しかし母はもらってきた薬を飲むことはなく、「私はおかしくない!」といつも文句を言っていました。

母はいろいろと納得していなかったかもしれないけれど、とりあえず私たち親子は福祉と医療に繋がることが出来ました。

福祉事務所の方は定期的に家にやってきて、母に通院のことやゴミで溢れかえる部屋についていろいろと厳しく指導したりしていましたが、私には優しく接してくれました。

学校が私の居場所

中学校では友達もたくさん出来て、勉強や委員会も頑張っていたので先生からもよく褒められ、苦手な数学と体育の時間以外は楽しく過ごしており、自分にとって1番大切な居場所となっていました。

大好きな先生の離任式の日に撮ってもらった写真。


広報委員会に所属して校内新聞を制作したり、校内の弁論大会で学年代表になって賞を取ったりして、自分の伝えたいことを言葉にして発表することを全力で楽しんでいた時期でもあります。
言葉で表現するのが楽しいし、教師という職業への憧れもあり、「国語の先生になる!」が当時の夢であり、同時に心の支えでもありました。

「辛いことは、良い先生になるために必要なんだ!だから私は頑張る。」

謎の咳は自分からのSOS

家での辛いことに耐えて、出来るだけ前向きに学校生活を送っていましたが、中学3年生になった頃、私は急に咳が止まらなくなりました。
2003年4月のことでした。

当時、海外でSARSが流行。健康診断に来たお医者さんから、病院へ行くように勧められました。

するとその日の放課後、学年主任の先生は半ば強引に私を病院へと連れていきました。
母は以前、私が水ぼうそうになっても病院へ連れて行ってくれなかったような親です。
先生は、家に帰って母に相談しても病院へ連れて行ってもらえないこと、そしてきっと咳の本当の原因も分かっていたのだと思います。

病院へ数回通い、咳がウイルスなどのせいではないと言うことが分かります。体に悪いところも見つからず、咳止めのお薬も効きません。
ただただ、咳が止まらず苦しい日々が続きました。

そんな私を学年主任の先生は放課後呼び出し、「辛いことはないか?お母さんのことで何か言いたいことはないか?」と聞いてきました。

生活保護を担当していた方が学校と連絡を取りあっていたので、家庭環境については先生も知っています。

私は、「辛いこともあるけれど、この経験は将来、夢である先生になったら役立つものだし、頑張ります。」と答えました。

そんな私の言葉を聞くと先生はため息をついたあと、
「お前はなぜ身体が悲鳴を上げているのに、その声を聞いてあげないんだ!」
と私を叱りました。

私はその言葉を聞くと、自分でもびっくりするくらい涙が溢れてきて、「ずっとずっと辛い」「お母さんが怖い」「これから先が不安」など、これまで誰にも言えなかった言葉が自然と滝のように出てきました。

私が私のSOSに初めて向き合った瞬間でした。

助けを求めるという決断

先生は、
「お前が『助けて』、『親から離れたい』、と言わないと助けてあげられない。ただ、『助けて』とここで言ってくれたら先生たちは全力で動く。どうする?」
と聞いてきました。

私は、声を震わせながら
「助けてください。お母さんから離れたいです。」
と答えました。

母が私のハグを拒絶してから8年、私はようやく助けを求めることが出来たのです。

学年主任との話し合いが終わり、席を立とうとしたとき、
先生は私を見て笑顔で声をかけてくれました。

「気づいてる?咳、止まってるよ!良かったね!」

咳が止まってすぐの修学旅行でのクラス写真。
学年主任の隣で嬉しそうに笑っています。


母からの解放

学校の先生や市役所の方と何度も話し合い、「私に危害が及ばないように」を最優先に、母にバレないように慎重に計画を立てました。
この話し合いのときに知ったのですが、私の家を担当している福祉事務所の方と私の担任が、なんと高校時代の同級生だったのです。この同級生コンビはまだ20代半ばと若い方たちでしたが、本当に力になってくださいました。

そして、私が助けを求めてから5ヶ月後に母親は私が学校にいるタイミングで強制的に入院。
家で1人で暮らすわけにもいかないので校長先生の家にお世話になるという貴重な体験をしながら、その後1人になった私がどう生きてゆくか児童相談所の方とも面談し、学区の問題でお世話になった中学校を転校しなくてはならない児童養護施設にはあえて入らず、中学校の近くの下宿で生活したいという私のわがままを叶えてもらうことになりました。

2003年11月3日、下宿で自分だけの部屋をもらえたとき、「やっと解放された」…そう思えました。だから毎年11月3日は、私にとって忘れられない記念日なのです。

下宿先から大好きな学校を卒業しました。



私にとって大切な11月
偶然にも、11月は被害を未然に防ぐために理解を深める「児童虐待防止推進月間」です。
そして、子ども虐待防止をなくすことを呼びかける「オレンジリボン運動」というものがあり、オレンジ色は子どもたちの明るい未来を表す色として選ばれた経緯があります。
オレンジとほぼ同義のみかんを名乗ってきた自分は毎年11月になると、今辛い思いをしている子どもたちと、かつて辛い思いをした子ども時代の私のために想いを伝えねば、と思わずにはいられないのです。


私が自分の経験を通して同じような境遇の子どもたちに伝えたいことは、
SOSは伝わると信じて、まずは助けを求めることを大切にして欲しいということです。

私はたくさんの大人たちによって助けられました。
自分はうまく助けてもらった方だと自覚しているし、世の中にはチャンスはあったはずなのに救出まで繋がらなかった悲しい事件があったのも事実です。
でも、最初から誰も助けてくれないと諦めたり、自分はまだ我慢できるからとか、私以外にも辛い思いをしている人はいるなどと自分の辛いという気持ちに蓋をしなくて良いのです。

どうか、助かることを諦めないで。相談する相手は1人じゃなくていい。自分が伸ばした手を掴んでくれる誰かに出会えるまで、何度も助けを求めていいんだから。

卒業式のあと友だちの家にお泊りした写真。
母と暮らしていた頃はお泊りなんて出来なかった。


子どもが子どもらしく、笑顔で過ごせる社会になりますように。

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児童虐待防止推進月間に伝えたいこと、あともう少し続きます。
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