山水画の近代における意義ー民主主義・近代・他者との関係性
以前noteで「民主主義の道を臥遊する」と題して、
山水画の現代における、とくに民主主義社会における
意義を論じたことがあった。
そのときは、
という前提で、
と、古代との政体の相違によって、山水画の意義も変化するのではないか、
という問題提起をした。
その上で私は「隠遁しない山水」という、
「隠遁」という山水のいわば必要条件にも似た(絶対に隠遁がなければ
山水でないわけではないが)ものを葬り去ろうという蛮勇を振るった。
しかし、ここで、さいごに疑問として残ったのが、
という当然ともいえる山水の崩壊であった。
あれから1年ほどこの話は寝かせていた、
その間も私は民主主義について考えさせられる機会があったが、
今のところ私は手放しに民主主義を肯定することができない。
政治の根本原理は主権在民であることは、一向に否定しない。
それどころか、これは実は我が東アジアでも共通の原理ではないかと考えている。
『書經』には「天の聡明は我が民の聡明に自い、
天の明畏は我が民の明畏に自う」とあり、
『孟子』には「民を貴しと為す。社稷これに次ぐ、君を軽しと為す。」とある。
しかし、民主主義の名の下に民衆が極端な扇動に毒せられ、
民主主義の目的たる民衆自らの福利厚生を失う憂き目を見ている。
君民が対等水平である以上、人民も今度は自治者として、
倫理規範を有つ時が来ている。
何を倫理規範とするかは、
対話公論のなかで決せられるべきであるが、
その決定は何人の権利尊厳も損なうものであってはならない。
換言すれば対話公論は対話公論を否定する結論を出してはならない。
「自殺」をしてはならないということが一箇の規範たり得ると考える。
『貞観政要』に「もし民衆を損なって自分の身に食らわせるなら、
それは脛を切って腹に食らわせるのと同じであり、
腹が膨れても体は倒れるのである。」とある。
この二つは論じる政体はことなるが、基本原理は同じである。
公論にささえられた、民主主義がその土台本身たる公論を損なう愚と
民衆にささえられた帝王がその土台本身たる民衆を損なう愚を
いうのだからである。
主権在民は書経や孟子の代からの普遍的な政治原理であり、
その政体(これは君主制、民主制などの別はあろうが)の
蠱乱を防ぐにあたっての方法論にも、
古今に通ずる原理すなわち、ーしくみの自殺の禁止 が横たわっている。
さて、随分と話が、大きくなったが、結局
民主主義の政体を理想として大きく掲げることに
何処か生理的な違和感を感じているのだと思う。
だから、山水画にこれを取り入れることを潔しとしないのである。
私は山水画を他者とのつながり、関係性を描く絵画ではないかと
考察するに至った。
そして、民主主義よりも、より大きい理想的な関係性を描きたいと思うに至った。
それは、「自己の安心できる領域を確保しつつも、
他者とより良い社会を構築する」ということだ。
これは、ある意味で、近代への拒絶でもある。
無論、ここでいう「近代」には
私の偏見が散見されることはご容赦願いたい。
近代とは、ヘーゲルが指摘するように、
身分階級が表向きでは解体され、
全ての関係性が対等になったが、紛争が絶えない社会であるということだ。
そこで美しい調和を古代に求めたり、話の合う者同士で徒党を組んだり
することは、本当のあり方への拒絶であって、
反動的、退嬰的と目されるものである。
このような考え方の中で、山水紫明の間に隠遁する者がどう映るかは
容易に察しがつくだろう。
私は隠遁者の生き方を否定する近代に抗う。
そもそも、なぜ隠遁は反動的なのだろうか?
本当のことを知ろうとしないからか?本当のことを知りすぎた結果、
現実と向き合うことを恐れた場合、それは卑怯なのだろうか?
私はそうは思わない。自己否定に恐怖を感じるのは当然の
反応であり、その内心の安全までもを差し出せという近代は
暴力的にすぎる。
だからと言って、社会とのつながりを寸断するべきなのかは、
また、議論のあるところだろう。
それでも社会と繋がる前にまず、自己という安心できる「山」に
住んでいることが、他の「山」に住む友人を訪ねに行く場合の
最低限の条件ではあるまいか。
その安心できる「山」を持てずにいる者を追い立てるようなことを
私は赦さない。
「自己の安心できる領域を確保しつつも、他者とより良い社会を構築する」
先ほど、示した「大きな理想」だ。
これを山水画で表す場合、自分の山から友人の庵を訪ねる。そんな、
古来の山水が呈される。結局一周回って「古」こそ「新」
だったわけである。
ようやく近代における山水の意義を
掴みかけるところまで来た、そんな作品がこれだ。
ラフ画で申し訳ないが、ご覧いただきたい。
登場するのは、
遠くに見える一人の漁翁。
庵に住まう人と庵を訪れる人。
何やら語らっている三人の友人。
これは、それぞれ、人間の社会への接し方を段階を追って
描いたつもりである。
まず一人というのは、外部と接しない完全に「私」の状態。
次に二人というのは、「社会」が発生する端緒の状態。
その後の三人は議論に異論が加わる「公」の端緒の状態。
これを理想的な形で拡大すればそのまま武陵桃源のような
ユートピア思想に繋がる作品へと発展する。
(三人を四人にしようと、三千人にしようと本質は同じ)
なぜこれらの人々が猫の姿をしているのか?
これは本当に個人的な問題なのであるが、
どうやら私には人物を描くセンスが大いに欠落している。
これは、私の人間と関わることへの不器用さを
端的に表している気がしてならないが、
だからこそ、そこを飾らずに、「猫」という一種のイマジナリーフレンド、
「空想上の友人」に登場してもらうことで、
収拾することにした。
それが結局は作品としても見苦しくないものになるだろうから。
そして、この思索はこれからも刷新されていくだろうと思う。
なので、本論で「終わり」ということではない。