民主主義の道を臥遊する
山水画、ことに文人画というと私はどうしても、
富岡鉄斎(1836〜1924)という画家(本人はそう呼ばれたくないのだろうけれど)を抜きにして語ることはできないと思う。
彼はなんでも「最後の文人」であり、
とにかく、絵を見る前に「賛」を読めというのが口癖だったと聞く。
「賛」とは古来東洋でその絵に合う漢詩文を書き添える文化があり、
その漢詩文のことをいうのである。
その賛文の意味がわからないと彼の絵はわからないという。
なので、現代の一般人にはとても難解なものとなっている。
そして、私はそのスタイルに強く影響を受けた者の一人である。
ところで、富岡鉄斎は日本史の
明治大正期の芸術のページに載っていない(私の読んだ本がたまたま
そうだっただけかもしれないが)そしてここからは邪推に近い推論だが、
代わりにそのページに載っているのは黒田清輝や横山大観、岡倉天心といった
錚々たるメンバーである。しかし彼らは洋画であったり、日本芸術の改革で
あったり、何かと革新性のある人々だったのだと思う。
教科書的にはそういう人々こそ「掲載」するべきであって、「最後の文人」
はいわば、旧幕時代の遺物であって載せるに値しない、
とされてしまったのではないか。勿論これは私の推測なので、
あくまで推測としてもらいたい。
さて、そんな旧幕時代の遺物(?)に強い影響を受けた作家がこのわたしである、
という話に戻そう。
私には眩しかった、古今和漢の典籍への深い造詣、心に浮かんだ景色、
墨の色彩、鮮やかな絵の具の発色、読めないほどに崩されているのに味わい深い漢字の並び。これらが全て融合されている。これが「最後」ならなんの悔いもない。
しかし、私はそれを現代に復活させたかった。おおそれた望みであることは承知である。それでもやってみたかった。「文人」とは中国では「士大夫」すなわち
高級官僚であり、(タテマエだったとしても)天下国家を憂えて政治を牽引する立場だった。すくなくとも「天下経綸」を標榜する彼らの姿は眩しかった。
その「文人」たちが余技として描いた(鉄斎もそうであった)書画の数々、
これは勝手な私の浪漫主義だが、そんな彼らはきっと絵の世界でも
経世済民を考えていたのではないか、と思うのだ。
私の思い込みだったとしても、少なくとも私はそれを信じて、
「文人画」を今日もかいている。
でも、古代中国の思想哲学を体現した書画は果たして、
我々の社会に何か現代的な意味を持ちうるのだろうか。
という問いが自分の中にあった。果たしてずっと山に隠遁している
清廉潔白の士を描いていれば、それでいいのだろうか。
確かに古代には隠者は有徳者として尊敬された。
それが政治的な意味を持ってもいたのだと思う。
でも、現代という大衆社会で、すくなくとも我が国では
民主主義によって政治がなされている以上、
文人画もやはり新しくならねばならないのではないか。
そんなことが頭にちらつき始めていた。
そんなことを考えていたので、あるひ頭の坩堝が臨界点を
超えたのか、「隠遁しない山水」という物を閃いた。
この絵では旅人が漁港の方を向いて両手を上げている。
こういう世に打って出ていく山水があっても良いのではないかとおもった。
ひとり琴を携えて山中の友を訪ねるのも良いかもしれない、
でもそこには人間がいない。男しかいない。社会ではない。
この絵には子供も女性も老人もみんな入れてみた。
そういう彼ら彼女らとともに作るのが社会であると思うから。
勿論これでわたしの山水は完成したのではなく、
やはり課題がある。それはこの絵が山水である必然性に乏しい
ということだ、隠遁するなら山の中だが、これなら普通のポリティカルアート
でもいいのではないか?ということになるからだ。ここからは未消化の話で、
まだまだ発展があるように思う。
せっかく書いたので壁紙カレンダーにしてみた↓
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