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お客様との闘い━苦情処理

 こんな犯罪ドラマを観たことがある。
 ある事件が発生した。事件に結びつくような背景や原因はなく、捜査は難航した。やがて逮捕されたのは、真面目で気の弱そうな一人の男だった。被害者とは何の接点もなかった。犯行の動機について男はこう語った。「お客様に苦情を言われ続け、鬱積していたストレスを吐き出したかったから」。男は企業の苦情処理係だった。

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 会社の苦情処理マニュアルやモノの本には、お客様の苦情には誠心誠意耳を傾け、心からお詫びしなければならないと説かれていた。そして会社を代表する気構えで対応すべしとも。
 だが、自分の犯したミスならともかく、他人がやらかした失敗の尻ぬぐいをさせられるのは、仕事とはいえ割に合わないことだ。しかもその仕事はお客様の怒りに直面するもので、その威圧にひたすら耐えてやり過ごさなければならない。対応を誤れば会社の社会的評価を貶めるだけでなく、企業存続に影響を及ぼし命運を左右しかねない。苦情の少なからずは会社のグレーゾーンにも関わることだ。
 苦情処理はそんな外と内からの重圧の下で行われる。ストレスが鬱積しないわけはない。深刻化すれば鬱病を発症し、人間嫌いや人間不信に陥ると言われていた。一年務めると寿命が十年縮まるとも。

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 会社のコールセンター業務には苦情処理の仕事があった。苦情処理係という肩書の担当者がいたわけではなく、オペレーターが対応できない苦情の電話が回されてくる。
 どの会社のコールセンターもそうだと思うが、オペレーターの多くはパート従業員と派遣社員なので、彼女らの一存で判断を下せないような苦情は、責任者の正社員が対応することになっていた。手に負えない強硬な苦情や、「社長を出せ」「男に代われ」に対しても同様だ。
 とはいえ、最初に電話に出るオペレーターが、苦情処理の最前線に立つ存在であることに間違いない。

 苦情処理の仕事が苦痛なのは、苦情の内容自体への対処法が難しいからではなく、それが人の、負の感情の脅威にさらされる仕事だからだ。お客様が怒りをむき出しにすることがなければ、苦情処理はずいぶん楽になるはずだ。感情的にならずに苦情を訴えるお客様は多くない。
 怒りは時に、暴言や恫喝や人格攻撃となって、電話の前で平身低頭する者を打ちのめす。泣き出す者も少なくない。
 威圧する存在が厳然と目の前にあるわけではない。ひょっとしたらそれは、電話の向こう側でおぼめく幻に過ぎないかもしれない。
 だが、電話の彼方から発せられた罵詈雑言は、一口ひとふりの鋭利な刃物となって、それだけでたやすく、そして容赦なく、恐れかしこまる者の魂を切りさいなむ。

 当時の苦情処理の指導書には、理不尽な苦情や誹謗中傷には毅然とした態度で臨むべしと書かれていた。また、非がないのに謝ったら立場を危うくするからむやみに謝るなという、訴訟を前提とした欧米流の考え方も知られていた。苦情の中には、根拠の薄い言いがかりまがいのものや、お客様の無知からくる身勝手なものなど、謝るいわれのない「苦情」もあった。
 だが、実際の現場で毅然とした対応をする者はほとんどいなかったし、事の是非を明らかにして反駁する者もいなかった。どんな苦情であれ丸く収めるのが苦情処理の仕事だという、事なかれ主義的な捉え方が支配的だった。理念理想と現実との間には乖離があった。
 一線を越えてくるような非道で横暴な苦情には、己をより空しくしなければならなかった。そこには耐えがたいほどの割り切れなさがあった。このままでは人間が駄目になると、ささやかな抵抗を試みるのだが、そうすればそうしたで、苦情処理は失敗し、不愉快な後味だけが残った。

 お客様からの電話は苦情ばかりではない。お礼や感謝の電話もいただいた。うれしいことだ。
 しかし、そんな心温まるような気持ちも、たった一本の苦情電話で吹っ飛んでしまう。たとえ苦情が無難に処理できても、苦情を受けたあとはしばらく心がふさいでいた。見境のない苦情であればずっと不愉快だった。それはつまり、そんな精神状態が日常だったということだ。

「社長を出せ」も「男に代われ」も苦情の常套句だが、社長が苦情の電話に出ることは、個人経営のような会社ならともかく、実際にはまず起こらないし、あってもならない。事情を十分に把握していない者に苦情処理ができるはずはないし、「あんな電話を回すな」と苦情ゝゝを言われるのがオチだったので、苦情は現場の担当者レベルで食い止めなければならなかった。
 また、「男に代われ」と言われても、在席している男が責任者であるとも適任者であるとも限らない。私の上司は叩き上げで男勝りの女性管理職だったが、男に代われと言われたやるせなさをこぼしていた。一部のお客様の頭の中には、前時代的な考え方が根強く残っているのだ。
 これは男性客だけでなく、女性客についても言えるようだ。「男の人に代わって」と、話もしないうちから同性のオペレーターを見下すことは、その女性みずからが女性性を見下すことにならないか。オペレーターにはしかるべき能力と、話を聴く用意があるのだから。
 そして、女性客から女性オペレーターに向けられる苦情を聴いていると、その言葉のはしばしに、何か敵愾心のようなものを感じてしまうのだが。

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 苦情の中には、本来なら苦情ではない「苦情」も少なくない。お客様の思い込みや勘違いだ。

 苦情処理の問題でよく引合いに出されたのが、ファッションに関する「苦情」だ。
 ある女性客が、店頭のマネキンがまとったドレスに一目惚れし、試着もせずに希望サイズを購入した。
 後日、女性客はドレスを手に、店に怒鳴りこんできた。ショーウィンドーのドレスと全然違う!と。
 店側が慌てて調べてみたが、女性客が購入したドレスは、マネキンが着ていたものと同一商品に間違いなかった。気付かれにくいデザインの変更があるわけでもなく、不良箇所があるわけでもない。サイズも指定したものと合っている。それでも女性客は違うと言い張った。
 痩せたマネキンとは対照的に、女性客はふくよかな体型だった。店側は「違うのはドレスではなく⋯⋯」という言葉を呑みこんだ。

 コールセンターにはこんな電話がよくかかってきた。
 オペレーターが1コールで電話をとり、会社名と自分の名をきちんと告げた。相手は名も名乗らず、いきなり怒鳴り始めた。あまりの剣幕に動転したオペレーターは、ただ謝ることしかできなかった。
 だが、相手の話を聴くうちに、「苦情」の内容がわかってきた。冷静さを取り戻したオペレーターは訊ねた。
「どちらにおかけでしょうか」
「何言ってんのよ! ✕✕社でしょ?」
「おかけ間違いのようです。こちらは○○社です」
「ぁ、スミマセン」(ガチャッ)

 思い込みや勘違いであっても、それらが苦情のトゲを逆立てていることに変わりはない。少なくとも、楽しい電話でないことは確かだ。会社に落ち度がないにせよ、深い疲労感が胸の奥底にわだかまり、働く意欲と気力をそぐ。

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 当時お客様と接する現場では、C S ということが盛んに言われていた。C S
とは Customer Satisfaction の略で、顧客満足とか顧客満足度と訳されていた。商品の購入時やサービスの利用時にお客様が感じる満足感のことで、この顧客満足度を高めていくことが、売上や利益の拡大を図る上で重要とされていた。
 アメリカ発祥の概念で、いいものは企業が決めるという、それまでの独善的思考の見直しと反省から、お客様の要望や嗜好をより重視した商品やサービスを提供しようという、いわば顧客中心主義とでもいうべき考え方が生まれた。

 苦情処理に関しても、お客様の苦情に積極的に向き合うことが、顧客ロイヤリティーを増し、再購入率や再利用率を高めると説かれていた。そして、苦情から企業の問題点をすくい上げて改善を図り、さらには、新たな商品の開発やサービスの創造に役立てようとも。
 受け身でその場しのぎの色合いが強かった苦情処理にスポットを当て、新たな価値を見出そうとするもので、企業における苦情処理の重要性がクローズアップされるようになった。そのこと自体はうれしいことだったのだが。

 書店には C S コーナーができるほど関連書籍が溢れていた。それらの多くが、ブームに乗り遅れまいと急ぎ出版されたものだった。書き手の野心というより出版社の戦略だろう。
 こんな短い時間で書けるのかと思ったが、実際にそれらの本はそれだけのものでしかなかった。ありきたりのことを羅列しただけの、中身の薄い内容だった。

 それは肝腎の苦情処理についても同様だった。救いを求めるような思いで知りたかったのは、苦情処理でこうむる精神的苦痛やダメージにどう対処するかということだ。しかし、それに応えてくれる書物は皆無に等しかった。
 苦情にはお客様に寄り添った対応をしましょう、その声に真摯に耳を傾けましょう、怒りに理解を示しましょう、不快な思いに共感しましょう、心からお詫びしましょう、そして感謝の念を忘れてはいけません⋯⋯。
 あなたたちは怒鳴られても何ともないのか?
 そんな、鞭打たれながらも笑みを絶やさないような人間は、よっぽどできた人格者かペシミストか鈍感な輩だ。
 この人は苦情の電話の一本も受けたことがあるのだろうかと、足元が見えるような著者も少なくなかった。

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 ある時、会社を挙げての業務改善の一環として、経営コンサルタントによるセミナーが開かれた。コールセンターでは何組かに分かれ、全員が女性講師による講習を受けた。
 事前に渡された名刺には、講師の大ざっぱな職歴が記されていた。コールセンターや接客の経験を積んでいるようだった。苦情処理にも長く携わったようだが、講義はパワフルでアグレッシブなもので、ボンヤリ聞いていると怒られそうだった。苦情処理の何たるかを知る者で、あんなに元気な人は見たことがない。

 講義の詳細はほとんど覚えていないので、ごく一般的で基本的な内容だったのだろうが、なぜか発声練習や歩き方の指導があった。
 発声練習は腹式呼吸だったが、息を吸う時か吐く時に、腹をボコッとくぼませる。ペコリではなく、ゴルフボールくらいに丸くボコッとくぼませるのだ。やり方がわからず戸惑っていると、講師が「ほらね」と言って、一人一人に自分のお腹を触らせた。
 歩き方は、簡単に言えば胸を張って颯爽と歩く。会場はそれほど広くないフロアだったので、言われた通りに大股で歩くと、数歩で反対側の壁に行き当たってしまった。そして講師の拍手。
 発声練習はともかく、歩き方がコールセンターと何の関係があるのか、今もってわからない。

 発声と歩き方以外の講義内容はありふれたものだったが、時間外なら本音の話が聞き出せるかもしれないと思った。そこで、講義が終わってから講師に声をかけてみた。質疑応答は講義の最後に設けられていたが、講師は快く応じてくれた。解決が見出せずにいた、苦情処理における心のケアのことだ。
「お客様に怒鳴られたりすると、仕事とはいえ平常心を保つのが難しいことがありますよね。そんな時どうしますか? いやな気分にどう向き合って、どんなふうに解消しますか?」
 すると講師はすかさず、
「自尊心の問題ですよね」
 と訊き返した。
 自尊心の問題——。
 お客様の怒りにどう対峙し、折合いをつけることができるか。怒りに打ち砕かれた自尊心を、いかにして回復し保持することができるか。
 自尊心の問題こそ、苦情処理にたずさわる者の、精神面における核心的な課題なのだ。講師はそのことを知ってはいた。
 しかし、講師は少し考えてから、それまでの明朗な話し方とは違う口調で答えた。
「やっぱり、我慢するしかないでしょうね」
 質問の半分には答えてくれたが、自尊心については何も言わなかった。胸に何かがつかえたような、歯切れの悪い言い方だった。
 自尊心の問題に取り組む企業は、当時でもあっただろうか。
 また、苦情を申し立てる側の自尊心について解説する本はあったが、受ける側の自尊心に言及した書物は、知る限りにおいて一冊しかなかった。
 その一冊の書物も、自尊心の問題については講師と同様、明確に答えることができなかった。やりきれなさを滲ませて、ただ「我慢せよ」と。

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 多くの書店から C S コーナーが消えて何年くらいになるのだろう。顧客満足についての本は書棚に並んでいるが、一角を占めるほどの種類も数もない。今や C S は当り前のことになったのか、それとも一時のブームとして消え去ったのか。ネットで C S を検索してみると、最初に出てくるのは野球のクライマックスシリーズだ。

 顧客満足の考え方がサービス業の世界に浸透したのは間違いない。あの頃からサービス業の接客態度が良くなったような気がする。現在でも客商売に不向きな無表情に出くわすことはあるが、おそらく本人に他意はないのだろう。かつてしばしば見られたぶっきらぼうな接客は少なくなった。

 しかし、顧客満足の弊害とでもいうものが、当時すでに現れつつあった。サービスを受けることを当然とする考えが、歪んだ形に変容して肥大化した。
 悪意を秘めたクレーマーという存在ではない。ごく普通の善良な市民が、過大なサービスを享受する権利を主張し、公然と要求し始めたのだ。荒唐無稽で馬鹿々々しいものも少なくなかったが、おそらく当人たちにそんな自覚はなかった。
 だが、それらが聞き入れられないと、時に暴言や嫌がらせをもって報いた。
 それはまだごく一部の兆候に過ぎなかったが、業界ではその広がりや危険性に気づいていた。ある会合では対策が話し合われた。このままにしてはおかないぞと。

 あれから三十年経った今、業界内外では C S や顧客満足に代わり、カスハラという言葉を耳にするようになった。カスタマーハラスメントとは言うまでもなく、顧客からの暴言や嫌がらせなどの迷惑行為、理不尽な苦情や要求などのことだが、とうの昔からあった現象だ。事ここに至ってカスハラという名称が付与され、認知されたということだろう。
 エスカレートするカスハラに対して、企業はようやく対策を講ずるようになった。それらの多くは従来からの苦情対策と共通するものだが、さらに踏み込んで、カスハラへの対応拒否を掲げる企業も多い。わが社はカスハラを受け付けませんと。

 自尊心の問題はどうなったのだろう。企業はそんな曖昧模糊としたものは飛び越えて、拒否という、ドラスチックな方法を選択してしまったような気がする。
 自尊心の問題というものは、個人にとっても企業にとっても、はっきりとした答が見出だせない、闇の領域にあるものなのだろうか。

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 苦情処理をやったのは十年だから、寿命が百年縮まっているはずだが、今のところなんとか生きている。人間嫌いや人間不信に陥ることはあったが、鬱病にもならずに済んでいる。ストレスは鬱積し続けたが、犯罪に手を染めることもなかった。

 苦情処理で得たものは何だろう。苦情の対処法を学んだことはもちろんだが、苦情処理におけるすべてを知り得たことは確かだ。それはまた、苦情の訴え方を知ったということでもある。怒りという感情の効果と功罪も含めて。
 日本人はおとなしい。カスハラ対策のせいで苦情申立てに弱気になっても、正当な苦情なら臆せずそれを行使しなければならないし、誠意を欠いた苦情対応には厳しく抗議しなければならない。そういったことをなおざりにすれば、より良い商品やサービスは生まれてこないから、個人が浴するべき恩恵を失うことになり、それはまた個人の購買意欲を低下させて、企業にとっても不利益にしかならないからだ。
 苦情を言われる側の苦しみはよく知っているが、そのうえであえて、苦情申立ての大切さを強調しておきたい。


記 事 一 覧

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