『風越峠にて』自分の宿命と対峙すること
発表年/1975年
先日、日経新聞の「文学周遊」で、辻邦生さんの『風越峠にて』が取り上げられていました。
もともとこの短編をこちらでもご紹介するつもりだったので、それに合わせたわけではありませんが、良いタイミングだったとおもいます。
『風越峠にて』は日本書紀巻第三十、持統天皇の項で描かれる大津皇子謀反の事件を下敷に書かれた短編小説です。戦中を山岳地方の旧制高校で過ごした「私」が、同窓の友人、谷村明が戦争末期から終戦直後にかけて遭遇した出来事を本人から聞かされるという形で話は展開します。
1.大津皇子謀反の周辺/日本書紀及び万葉集より
ご存知の方も多いとおもいますが、話の理解を進めるために日本書紀にある大津皇子の事件についてあらましをご紹介しましょう。
天智天皇の弟、大海人皇子と息子の大友皇子の覇権争いが壬申の乱です。壬申の乱に勝利した大海人皇子が天武天皇となり、ともに天智天皇の娘である皇后鸕野皇女と大田皇女のあいだに、それぞれ草壁皇子、大津皇子という男子を儲けました。有力者に恵まれた草壁皇子は立太子をして皇太子になりますが、大津皇子は容姿端麗、文武に優れ人望も厚いという優れた人物(このあたりは奈良時代の漢詩集、『懐風藻』に記述があります)。であれば、息子草壁を天皇につけたい鸕野皇女の気持ち穏やかであるわけがありません。
天武天皇の死後、密告によって大津皇子に謀反の疑いがかけられ、大津皇子は捕えられて死を賜ります。
ところで大津皇子には伊勢斎宮に卜定せられた姉、大伯皇女(大来皇女とも)と、妻、山辺皇女がありました。謀反によって捕えられる前後、大津皇子は伊勢まで姉、大伯皇女に会いにいきます。しかし、斎宮として神に仕える身である大伯皇女とおおっぴらに会うことは叶いません。夜、京へ戻る弟をおもう歌が万葉集に残されています。
大伯皇女が斎宮の任を終えて京へ戻るのは、大津皇子が刑死を賜ったのちのことでした。大伯皇女は弟が葬られた二上山を仰いでこんな歌を詠むのです。
「いろせ」とは同母兄弟を言うそうです。
また、妻である山辺皇女は大津皇子の死を知って、
というありさまでした。
2.出征する谷村明の思い
時代は大戦真っ只中。いずれ兵役に取られるだろうという思いから、谷村明は何か書き残しておきたいと考えました。それが、上記の大津皇子の事件をもとにした小説を書くことでした。それより前に折口信夫の『死者の書』を読んでいた「私」は、谷村の気持ちに打たれ、同意します。
(本編では『死者の書』という名称が出てくるわけではなく、以下のように書かれています)
「私」はおそらく谷村もこの書から着想を得たものだろうと想像しますが、本当のところはわかりません。しかし、結局谷村明は小説を書くことなく、いつしか出征してしまいます。「私」は理系に進み、理系の学生は兵役を免除されていたので戦争に取られることもありませんでしたが、出征前谷村がある女性に恋をしていたという噂を耳にしていました。そのことが、谷村が何も書かずに終わったことと何か関係しているのかもと「私」は考えたのでした。
3.若き日を何ものかに耐え、生きてきた谷村明
戦後、何十年か経って「私」は谷村明と再会します。「私」が想像したようなものとは違ったけれど、それに近いことはあったと谷村は「私」に明かしてくれました。しかし、それは激しい痛みを伴うものでした。谷村は自分自身を大津皇子になぞらえて煩悶します。
実は谷村は海軍に入隊し、戦争末期の戦線で死ぬことが決定づけられていたのでした。しかし、直後に終戦となって生きながらえることになります。死んだ大津皇子と死ななかった自分。谷村明が思い悩み、戦後三十年、ぷっつりと何かが途切れたように感じ続けてきたことーーそれはもちろん、谷村が終戦前後に遭遇した出来事に関連していたのは言うまでもありません。それを知ってもらうために、谷村は「私」を二上山へと誘うのでした。
4.辻邦生さんが描きたかった《宿命》とは
辻邦生さんはよく、自分自身ではどうにもならない《宿命》あるいは《運命》に抱かれたような人物を物語に描いていらっしゃいます(『背教者ユリアヌス』のユリアヌス、『樹の声 海の声』の逗子咲耶(ずしさくや)、『真晝の海への旅』のベルナール・ノエなど)。その一方で、例えば先にご紹介した『廻廊にて』のマーシャのように、運命そのものを注意深く見つめ、それと対峙するかのように生きる人物を描くこともあります。
『風越峠にて』の谷村明はもちろん前者です。山辺皇女という、古代史の中でも特に哀れを禁じ得ない女性と出会うことが既に谷村明にとって宿命だったのかもしれません。
人にはどうしても避けられない《宿命》や《運命》があると、辻邦生さんは考えていらっしゃったのかもしれません。谷村明の遭遇する出来事は悲劇的な結末を迎えますが、敗戦も、その事件も、そして谷村本人が戦争で死ななかったことも、すべては決められた通りに進んだだけなのだーーそのことを辻邦生さんは書きたかったのだとーーそんなふうにおもえるのです、それがつまり《真理》だと。
「私」に宛てた手紙の中で、谷村明はこう言っています。
タイトルの『風越峠』は、麓から二上山の山頂へ至る途中の峠道のことのようです。Google mapでは、奈良県に風越峠は見つかりません。
ちなみに日本書紀の中でもこの大津皇子の事件は、万葉集の中の哀惜極まる大伯皇女の歌のためか、いろんな方によって作品化されていますね。
なお、上記の日経新聞の記事の中で、辻邦生さんが学生の頃は、学生たちに万葉集に魅せられて歌の場所を訪ね歩く気分があった(ちょうど今の、映画の聖地巡礼のようなもの)、おそらく作者(辻邦生さん)もそんなひとりだったのだろう、というような記述がありますが、これには賛同できません。新潮文庫の末尾の解説で平岡篤頼氏が、作中に出てくる折口信夫の『死者の書』を下敷にしていると書かれていますが、僕もそうだろうとおもいます。
【今回のことば】
『風越峠にて』収録作品
・筑摩書房「秋の朝 光のなかで」1976年
・新潮文庫「見知らぬ町にて」1977年
他
ただし、Amazonなどでも手に入りにくくなっているようです。図書館や古書店をご利用されることをお薦めします。