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『詩』あなたが少年だったころ

あなたが少年だったころ
一度は見たことがなかっただろうか
山肌に穿たれた洞窟の
薄暗い突き当たりに掛けられた
眉間に皺の寄った般若の面を
祭壇のしつらえがあって 御灯明みあかし
おもての前で揺らいでいた
あのほの明るい般若の顔を


砂利道が山裾を巡っていて
村の裏手から表通りへ出られたけれど
洞窟の前を通るのが恐ろしくて 子どもたちは
滅多にその道を通らなかった


やんちゃな仲間たちと一度だけ 洞窟を
僕は覗いてみたことがある それは気味の悪い
大人の背丈ほどもある洞穴ほらあな
恐る恐る覗き込んでみると 満々と
足元から奥まで水がいっぱいに溜まっていて 御灯明みあかし
暗い水面みなもに影を落として灯っていた
御灯明みあかしに照らされて般若の面が
目元に深く影を作り 哀しげな
陰鬱な表情でそこに掛かっていた
御灯明みあかしの光を受けて口元ばかり
水面みなもに白々と落ちていて
映った口元のその部分だけ
時折 風もないのにゆらゆらと揺れた


切り取られた映像のように
事あるごとに繰り返し その場面ばかり
僕の脳裏に鮮やかに蘇る
けれど 途切れた前後がそのたびに
苛々と不安を掻き立てる
あなたは見た覚えがないだろうか
遠い 少年のころの記憶の果てに
僕と同じようにとは言わないけれど


それから何十年か経って僕は
あの場所へひとりで行ってみた
子どものころに失くしてしまった 何か
大切なもののように
山はそこにあったけれど あの洞窟は
それらしき跡さえ
僕は見つけることができなかった


あれは本当にあったのだろうか?
あの洞窟は ⎯⎯


いつの間に舗装された道を辿り
僕は表通りへ出ると
港へと向かうバスに乗った
バスの窓から眺めると
通りは昔のまま変わらず走っていたけれど
家並はずっと小綺麗になって
僕が覚えているそれではなかった


バスに揺られながら
そうして僕は考えていた
大人になってしまった今では
誰の記憶のなかにもきっと
今更触れるべきではないものが
あるのかもしれないということを
それを封印するために あの般若の洞窟が
僕のなかにはあるのだろうか そうであるなら
あなたも見た覚えがないだろうか
薄暗い 満々と水を湛えた洞窟の奥の
御灯明みあかしに揺らぐ般若の顔を ⎯⎯




記憶というのはおかしなもので、何を覚えているかは自分の預かり知らぬところのような気がします。もちろん意識して覚えたことは別ですが。
上記の中に登場する、般若面の掛かった洞窟、というのは実は創作ではなく、子どもの頃実際に見た覚えがあるのだけれど、詩の中にあるように、大人になって確かめに行ってみたところ、そんな洞窟はどこにもありませんでした。何十年も経ってからのことなので、埋められてしまったということもあり得るのですが、山そのものは変わらずそこにあったので、そんな洞窟が本当にあったのかどうか、今となってはわからずじまいです。

似たようなことは誰の記憶にもあるんじゃないだろうか、そうおもって綴ってみました。




今回もお読みいただきありがとうございます。
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