『献身』死の床にある詩人ランボオと、それを看取る妹、モノクロームの映画のように
発表年/1966年
下の記事で辻邦生さんの作品の特徴をあげてみましたが、
もうひとつ、次のことがありました。
歴史もの、恋愛もの、あるひとりの人生を描くもの、思想的なイメージもの。中には怪談めいたものから「世にも不思議な物語」のような掌編まで。いったい、その着想はどこから得たのだろう・・・というより、なぜそれを書こうとおもわれたのだろうか、ということが気になってしまいます。
この『献身』という短編も、そんな作品のひとつです。
1.あらゆる世界への絶望と怒り。ランボオとは何だったのか?
この作品のモチーフとなった詩人、アルチュール・ランボオ(またはランボー)について、少しご紹介したいとおもいます。
河出文庫から出ている『ランボー全詩集』のあとがきで、訳者、鈴木創士氏はランボーについてこう書かれています。
また、1969年に出版された白凰社の愛蔵版詩集『ランボー詩集』では、訳者の堀口大学はこう記しています。
1854年、フランスのシャルルヴィルに生まれたランボオは、学業優秀ながら何かに反抗するかのように15歳で詩作を始め、16歳でパリへ出奔。その後はフランス社会、国家に絶望や幻滅、怒りを覚えながら、あらゆる規範の外へ脱出したいという激しい渇望を詩に託しつつ、ヨーロッパを放浪しました。
1875年、突然詩作を放棄してからは外国語を学ぶためにあらゆる職や場所を転々とし、最後に武器を扱う貿易商としてアフリカに辿り着きます。しかし、ついには悪性腫瘍を患って右足を切断、1891年に志半ばで死を迎えることになります。37歳でした。
そんなランボーの詩は、彼以降の世界中の詩人に現在に至るまで影響を与えつづけています。しかし辻邦生さんはこの作品の中で、ランボオにこう言わせています。
詩人ランボオとは、いったい何者だったのでしょうか?
2.小説『献身』を書いた辻邦生さんの思い
『献身』は、死の床にあるランボオが自らの一生を幻のように振り返るといった形が取られています。アフリカで武器の貿易に全精力を傾けた頃の自分とそこに至るまでの社会との軋轢、それを、まだ死ねないという強い思いに苛まれながら独白するランボオ。そして、そんな兄に死期が迫っていることを悟られまいと必死に涙を堪えながら看病する妹イザベル。書かれているのはランボオの生き様ですが、見て取れるのは薄暗い病室の中、ベッドに横たわるランボオと兄を看取るイザベルの、ふたりきりの姿です。その光景が、読む者に静かな感動を与えるのです。
『献身』が収録された初期の短編集『シャルトル幻想』のあとがきで、辻邦生さん自身が『献身』について次のように綴っています。
上記の意味で言うとこの小説は、確かに読者に密やかな感動を与えます。読者はランボオの破天荒な生き様を、その息遣いを目の当たりにしながら、実はごく狭い病室の中のささやかな出来事ーー死にゆく兄のことを思って打ち震える妹の後ろ姿ーーに、気持ちを重ね合わせることになるのです。
3.辻邦生さんの実験ーーまるで上質なフランス映画のように
辻邦生さんは、さまざまなモチーフを自在に操るとともに、小説の中でいろんな実験もされています。それは意図して行われている場合もあれば、期せずしてそういう手法になったと思われるものもあります。そして、『献身』の場合はおそらく後者です。
物語はまず、いわゆる神の視点ーー第三者が語り手として高みから見ている視点ーーで始まります。しかし、ある時点でそれはイザベルの独白に変わり、ランボオ自身の感情の吐露に変わり、また神の視点に戻る、といった具合。例えば次のように。
こんな調子でランボオとイザベルの独白が時計の振り子のように行ったり来たりしながら、時に神の視点が挿入される。そして最初から最後まで、これが段落もなく続いてゆくのです。それはまるで、モノクロームのフランス映画をひたすらじっと見ている、そんな感じです。どうやら意識してそのように書いたことは間違いないらしいのだけれど、『献身』という、ランボオの死期をモチーフに選んだ時点で既にこの書き方が予測されていた、そうおもわないではいられません。そこに辻邦生さんのおっしゃる《感動》が、より色濃く現れていると僕はおもうのです。
これはこれでひとつの作品として完成されているのは間違いなく、確かにフィクションなのですが、それにしても、本当にアルチュール・ランボーという人は、あるいはその生き方は一体何だったのでしょう? ただひとつ言えるのは、世界中のあらゆる詩人、作家、芸術家たちと同じように辻邦生さんもまた、ランボオに魅了されたひとりだったということです。
(ランボーとランボオは意識的に変えてみました)
【今回のことば】
『献身』収録作品
・新潮文庫「サラマンカの手帖から」1975年
・阿部出版「シャルトル幻想」1990年
他
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